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仮構か加工か書こう [ちょっと哲学的]

じゃあ、読もう。は「2010国民読書年」のキャッチフレーズだそうだ。本を読むぐらいで、気合を入れてどうする。そう思うのはプレソホリックなサイコのような人には当然、らしい。しかし、まぁ、サイコの他のブログで毎日の夕刊に対する懸念を書いたことがあるのだが、出版業界の焦りというものも新聞のコラムを書くような人には他人事、らしい。活字離れの轍を踏まないように思考するのは新聞業界も同列だと思うのだが、紙幅の関係でそこまで書けなかったのかなぁ。まぁ、コラムというのは字数の制限の中で多くを騙らなければならないからねー。まぁ、読者は誤読する、という了解で書ければ、かなりのエセーは読者を引き込むことが可能なのだろうけど、報道にはある種の制約が付きまとうからなかなか難しいけれどね。
ということで国民読書年である。優等生のサイコの最近のラインナップを紹介しておこう。

帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性  アントニオ・ネグリ マイケル・ハート

江藤淳と少女フェミニズム的戦後  大塚英志

ロスジェネはこう生きてきた  雨宮処凛

吉本隆明1968  鹿島茂

小林秀雄とベルクソン増補版 「感想」を読む  山崎行太郎

天皇・反戦・日本 浅羽通明同時代論集治国平天下篇  浅羽通明

1968(上) 若者たちの叛乱とその背景  小熊英二

と全部で7冊も借りてしまっているのだが、全部読めるわけもない 「1968(上)」は予約を入れてはいたのだが、どうせ借りられないと思っていたら、タイミングよく借りることが出来た。借りたはいいけれど読み切れないよなぁ まぁ、取り敢えず「江藤~」と「ロス~」と「小林~」はなんとか読み終えた。搔い摘んで「感想」を書くと、「江藤~」と「小林~」にある種の共通点があった。これは狙って借りてきたわけではないのだが、たまたまである。初出の時期も10年ほど経っているので01年に上梓された「江藤~」の方が後になるのだが、まず江藤淳は初めから共通点であることは知っていた。大塚は単なるファンであるが、山崎は弟子である。そして、批評の角度は全く違っているのであるが、両批評本で一章を割いている作家が三島由紀夫である。それで、大塚がいうとところは「サブカルチャーとしての日本」であり、三島の仮構性(フェイク)を江藤に即していっているのであるが、山崎がいうところは小林秀雄という批評家に対峙するための小説家としての三島の誕生、ということになるかと思う。両批評は、それぞれ江藤について、小林について書いているわけなのだが、三島をいわゆる「戦後民主主義」に対する反時代性の代表として、その終焉、三島の終焉以前の先輩批評家である小林、江藤をなぞることで、終焉以後の山崎、大塚という批評の変遷ということも言える。更に大塚に則していうなれば、山崎は小林になることもコピーとなることもできないけれども、江藤を仮構して小林の「原理的思考」を展開しているのではなかろうか。翻って、大塚は多分、批評家の仮構ではなく、「原理」の二次生産、あくまで加工としての批評であるかもしれない。まさにサブカルチャーを地で行っているのだ。






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