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ポストモダニカル アンハピネス [ちょっと哲学的]

吉本隆明1968  鹿島茂

吉本隆明の本はついに読んでないサイコである。まぁ、栗本慎一郎との対談本である「相対幻論」を吉本の著述であるとすれば、唯一それだけで、もう20年以上前に読んだきり何が書いてあったかさへ、忘れてしまっているし。さて、その吉本が全共闘の時代前後に、あれほどまでに人気を持って熱く読まれていたのかを、全共闘世代である著者の体験なども通じて書かれたものである。しかしながら、 吉本は「反・反スタ思想家」なのであるから、いわゆる新左翼のセクトの活動家たちに熱狂をもって読まれるべきものとは違っていたはずなのであるが、難解な吉本の語彙にまつわる思想を彼/女らはかなり誤読しながらも受け入れていたようである。さて、第2章 日本的な「転向」の本質、において中野重治の「村の家」を解説する吉本を論じているのであるが、その当時以前、要するに大東亜戦争時からの左翼思想家たちの「転向」を論ずるにあたり、日本人的な気質について論じている。著者は、この気質をもとに「半日本人」と「無日本人」という選別をしている。「自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンとの隔たりが、日本におけるほどの甚だしさと異質さとをもった社会は、ほかにありえない」とする吉本の言説を簡易にするためであるのだが、敢えてそれは書かずにおくが、転向者の心情として「日本封建制の優性遺伝」をまざまざと見せ付けられたときに、自己の中で眠っていた「半日本人」が覚醒し、転向してしまうということである。かたや、自然主義者(田山花袋、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥)は、「家」の前近代的な封建的劣勢を攻撃のターゲットとしていたのであるが、「無日本人」とはそこにマルクス主義(など科学主義)の教義性を優性と思い込み、まさにブルジョア資本制を打倒してプロレタリア独裁による無政府、無国家を夢想する者らである。「無日本人」には「日本封建制の優性遺伝」の自覚はみじんも無く、マルクス教義を優性とする無国籍者、エグザイルなのである。さて、著者が見るところ、吉本はこの両者を批判し、第3の道を模索する上で中野重治の転向、「村の家」を批評する。ところで、大塚英志江藤淳と少女フェミニズム的戦後でも「家」に纏わる話で、中野の「村の家」を取り上げていたりするのであるが、「江藤~」では江藤淳の移り住みの「家」という夫婦での放浪が基底にある。「家」=家父長制=封建制が、戦後民主主義によって解体される過程の中で、家父長制を保守するために戦後民主主義を批判したわけではないのだが、江藤の場合、天皇制という最大の家父長制を擁護することで最終的にはそうした図式のようにも見える。まぁ、余談がながくなるので詳細せずにこれも第3の道のひとつということで切り上げるとして、中野の「村の家」から吉本は、ありのまま(現実の社会、大きな政治が細分されているところの個人が介在させられる政治)という現実を直視し、挫折を超え出るための「個の深化」を第3の道としているのであろう。これは竹内好に通じるところもあり、事実竹内の著述も当時の若者たちにはよく読まれていたのである。
さて、中野を評価する吉本であるが、中野と同じ共産党員である小林多喜二に対してはボロクソである。同じく最近よんだ浅羽通明アナーキズムにも少しだけでてくるのだが、昭和初期当時に共産党員であることを隠すための工作として、女性党員との間で偽装して結婚生活を営む「ハウスキーパー制」なるいわゆる性奴隷制度があった。この党員の生活を綴ったのが小林多喜二の「党生活者」であるが、その文学的価値もさることながら、人間的価値に対しても「低劣な人間認識を暴露した党生活記録」として断罪するのである。これを吉本は「引きずり下ろしの民主主義」の正当化とみなすわけであるが、これは大塚英志いうところの負の特権意識のことを言ってるようだ。女性党員の不平に対して多喜二は「多くのプロレタリアの苦悩を思えば取るに足らない」として自己の生活が犠牲となっている党員生活を、革命の過渡上の犠牲として女性党員の不平を全否定するわけである。しかし吉本は、個人を救えない者が万民を救うことが出来るわけがないとして、党生活者の欺瞞を糾弾する。マルクス主義者の卑劣、スターリニストの卑劣をとことんやり込めるわけである。
そして、第4章 高村光太郎への違和感、で吉本が光太郎が終戦時に詠んだ詩に対する違和から、光太郎の「転向」の問題に遡行していく。光太郎は、多くの左翼知識人の転向とは全く違う仕方で戦争賛美に傾斜していったことを、吉本は紐解く。転向ではなく必然、自然の流れであった、と見ることも出来るのだが、当然そこには吉本本人の皇国少年が重なってくる。詳細は省いてどんどん進むが、「かつて智恵子との個人的な生活上に構築した「自然」法的理念を、光太郎なりに時代の大衆的な動向に社会化しようと試みた」結果、戦争という浄化作用を光太郎が希求した結果ということである。ヴェルハーレン的自然法思想が大きく影響しているのである。それは、「氷河期到来による人類滅亡願望という「超越的倫理観」は、光太郎が世界性と孤絶性の葛藤を回避して、関係社会意識の構築を拒否するために編み出した自然法的な理念(セックスを始めとする人間関係をすべて自然法にもとらないという観点から律していこうという姿勢)から、ある種、必然的に導き出されたものであった」のである。
「大衆の原像」から「自立の思想」へ 、それは全共闘という時代とパラレルなかたちではあったが、高度経済成長へと社会的パラダイムが移行していく中で、全共闘世代の彼/女らが個人の感情を的確に表現できる「言葉」を持っていないところに、これぞと思える、幻惑、魅惑的な詩的な「言葉」を提示させられたから、感受したということなのであろう。セクト、新左翼運動家にとってそれが、マルクス主義の概念語であったのと同等に、「反・反スタ」の詩的言語をも受け入れられた人間としての矛盾。存在の耐えられない軽さ、の日本の封建的優性遺伝子が「現代的不幸」という腫瘍に侵され死滅するかのごとく。




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