SSブログ

ミュルテプリシテ [ちょっと哲学的]

〈帝国〉  グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性  アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート


文明論之概略福澤諭吉がタネ本としてギゾーヨーロッパ文明史を使っているのであるが、この文明開化の俊英が引用しないようなところを強調的に引用しているのが〈帝国〉である。まぁ、「概略」との比較をするまでもなく、〈帝国〉はポストコロニアルであり、「概略」はアンチコロニアルである、という視点であるから、それこそ欧州に限らず世界的なここ300年くらいの歴史を概略すれば、世界分割の後とは何か、という視点なのである。アンドガタリでも述べたように、ポスコロ世界のヘゲモニーを確立した新たなる主権の頂点にあるのがアメリカ合衆国なのだが、ローマ帝国とのアナロジーで語られながらも、資本主義社会における民主制という視点からマルチチュードという概念を対置するのである。資本主義社会の、特にアメリカは混合政体であるとして、ポリュビオスのローマ帝国モデルを下敷きに、貴族制、君主制(フーコーのいう生−政治を含む)そして民主制の政治形態がハイブリッドに混ざり合っていて、これがモンテスキューの三権分立のように互いにけん制しあっているということを言いたいようである。このモンテスキューを踏襲したヘーゲルを極力排除して、そしてカントの図式化に堕しないために、マキァヴェッリを踏襲したスピノザを引用してくると、このマルチチュードという答えが出てくるしかないのであるが、この単体的なモナドに多数多様性を付加しなければ現在的な〈情況〉(シチュアシオン)が見えてこないために所謂ポストモダン思想(主にドゥルーズとガタリ、その影でリオタール)を横領しているのである。ポストモダンで変奏された唯物史観からヘーゲルを限りなく排除し、まだ有効だろうと思われるような共産主義理論を根気よくキルティングした闘争の実践のための心得書き、といったところだろうか。これは悪気でいっているのではなく、マルチチュードたる、そしてプレカリアート、さらにルンペン・プロレタリアートであるサイコも何かしらのことがあれば、闘士となる場合もあるだろうけれども、すぐ日和ってしまう小市民的存在なので、すぐさま実践という風にはならないからである。こうした実践理論の〈構築〉こそがマルチチュードの労働、ということだ。まさにカルチュラル・スタディーズの元祖のような感じである。さらに訳書たる〈帝国〉の〈 〉こそは吉本隆明シンパの〈自立〉マークにほかならない。今なお革命的であれ!という証である。
さて、帝国主義から〈帝国〉への移行、という唯物史観的な見方ではあるのだが、アメリカ合衆国自体が〈帝国〉ということではない。アメリカ合衆国は、あくまで〈帝国〉の内部でヘゲモニーを掌握したピラミッドの頂点にある主権、ということである。アメリカ合衆国は実態的な主権であるのだが、〈帝国〉自体は場所というものを持たない。〈非−場〉としてあるのである。フランシス・フクヤマが歴史の終焉をいうとき、「単一の統一された敵を名指すことがますます困難」となった情況を指し示している。近代的主権は、外部を持つことによって、確たる自己、すなわち内部を同定し、外部の内部化、すなわち植民地化が可能であったのだが、新しい主権、〈帝国〉においては、内部化する外部は存在しない。敵対する外部など無いわけである。しかし、それは反転する。

 ・・・・世界的規模の戦争機械がまるでSFのように次第に強力に構成され、ファシスト的な死よりもおそらくもっと恐ろしい平和を自己の目標に定め、すさまじい局地戦を自分自身の部分として維持し、誘発し、他の国でも他の体制でもない新しいタイプの敵として「任意の敵」に狙いを定め、一度は裏をかかれても二度目には立ち直る反ゲリラ要員を特訓しているのだ・・・・しかしながら、こうした「世界」的ないし「国家」的戦争機械の諸条件、すなわち固定資本〈資源と物資〉と人的可変資本こそが、変異的、少数者的、民衆的、革命的なさまざまな機械を産み出す予想外の反撃や、意想外な発意の可能性をたえず再創造するのである。千のプラトーP477

「いたるところにマイナーで捕まえにくい敵たちが存在しているように」みえるため、「近代性の危機の終焉は、汎−危機(オムニ−クライシス)を生み出したのだ。」(〈帝国〉P246) 外敵は存在せず、内部に潜伏するテロリストという「任意の敵」に標準をあわせている。「世界」的ないし「国家」的戦争機械は、局所に存在する「恐怖」を利用しているともいえる。外部に敵はいないが、というよりも外が存在しないのであるから、内部のいたるとところに潜在的恐怖が歴史の終焉によって見え隠れしている、ということである。歴史は終焉してしまったのであるから、ポスト〈帝国〉という史観は不適切ではあるのだが、そうした内部的恐怖によるある意味恐怖政治によって、ピラミッドの底辺にいるマルチチュードはまさに管理されている。しかし、ソ連邦が崩壊するごとく、その恐怖政治(〈帝国〉権力の統合性と連続性が極端に高まる専制政治)もマルチチュードを暴力的に管理する、まさにバイオ−ポリティクスの行使のあらゆる場面を通して、逆に免疫が低下するがために罹患するがごとく、決壊しはじめる。この二律背反の共時的作動によって、〈帝国〉は体制を維持せんがためにマルチチュードに及ぼす自らの権力によって、自らも弱体化させるというのである。マルチチュードからの反動ということではなく、及ぼす力によって疲弊する(本では腐敗といっている)わけである。そして〈帝国〉を通過した後に、マルチチュードのリゾーム的(リゾートじゃない)世界が現れるのである。まぁ、それにしてもこの〈帝国〉という本はまさにリゾームのラタトゥイユである。中に引用した、千のプラトーのここをネグリ等は注釈として付すのであるが、一種のパロディーという視点は棚上げしておこう。ミルプラを限り無く現状へ当てはめてみた理論というところである。もともと〈帝国〉には場所が無い、いや非ず(在らず)なのだから存在論も通じない。非−場というプラトンがいう「コーラ」の、まさにローマではないアメリカスとしての現実の〈非−場〉ということである。ソ連邦は崩壊したのであるが、〈帝国〉は果実が熟れ過ぎた終に解けるように崩れるヨウカイとなるのであろう。それこそはまさにマルチチュードが国家を超えた意味での主権となるときである。しかし、ヨウカイは死したことに気づかず、デス-ポリティクスとでも言うべき反動的恐怖を持続させるであろう。まさにマルチチュードはミュルテプリシテであるのだが、インターナショナルというマルクスの予言にも取り憑かれているからである。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

メーデー、メーデー1968 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。