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安田砦攻防戦 [ちょっと哲学的]

マルチチュード(上)  〈帝国〉時代の戦争と民主主義   アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

例の〈帝国〉の続編である。書いてあることは、〈帝国〉を引き継ぐわけだから然程変わらないのだけども、書かれた時期は、9・11からイラク戦争の間である。まず、上巻は、それこそ戦争の話からで、かなりマニアックに現在のアメリカ兵士の装備などから「身体なき戦争」ということを言っていたりする。実際、誤爆などもままあったあのピンポイント攻撃などは、バーチャルな感覚で敵を攻撃するわけで、第二次大戦のように敵同士が相手を確認しながら攻撃しあうという戦争の形態自体が変質してきているのである。そして前線の兵士は、昔も今もというように思い描きがちなのだが、通信手段の躍進的な進化によって、まさに「ネットワーク状」な連携をとりながら攻撃、防御を行うわけである。昔ならば、上官の上からの指令のみで一個中隊が、どこそこ方面へ展開されるというようなのが戦争の形態であったのが、まず情報をあらゆる角度から収集して、その情報に基づいてある一班のハイテク武装した一兵士が双方向的に指令部とコミュニケートしながら展開されるというのである。そしてピンポイント爆撃で敵の要所を壊滅しながら前進していくというのが、現代のアメリカ式戦争、〈帝国〉時代の戦争なのである。この形態全般は何もアフガンやイラクに限定されたものではなく、例えば、アメリカ国内においての対テロ、対マフィア的な警察行動にも合致するというのである。戦争行為というものが大きな警察による警察力の行使に変質しているという点も、以前の戦争とは異質である。これが、いわゆるアメリカの単独行動主義、世界の警察としての大義となっているわけである。そして、「戦争」といってはいるが、〈帝国〉にあってはそれは全て「内戦」としてしか起こりえない。この「内戦」というのもかなり広義のものであるのだけれども、実際上の内紛地域から各地で起こるテロなども「内戦」なのである。実際的にその鎮圧なり調停なりに有形力が行使される場合には、軍事力ではなく警察力である、というわけである。
さて、概ねは下巻の書評のときに総括するとして、ここで出てくるキーワードをごく簡単に書いておこう。まず、〈共〉性という概念。共通の、共同の、共有の、という意味合いを全て包含するものとして〈共〉性という風に訳されている。これは〈公〉〈私〉という概念のどちらをも採らず、どちらにも存在するということで対概念的なオルタナティブとして使われるわけである。そして、〈肉〉。身体ではなく、まぁ、現代的なアナロジーで言えば、プロティン飲んで筋肉を作るというようなのが合致すると思うのだが、マルチチュードとなっていく過程として、生成、精製されるのがこの〈肉〉である。マルチチュードの前段階というような生成過程である。そして多分これは誰も指摘しないようなことを、と思われるかもしれないのだけれど、マルクスの方法論を書いておこう。
1 歴史的傾向 - 産業労働から非物質的労働へ、フォーディズムからポストフォーディズムへ、そう近代からポストモダンへ
2 現実的抽象化
3 敵対性
4 主体性の構成
反スタであろうとなかろうと、広義のマルクス者らは、多かれ少なかれ、この方法論に基づいた思考というものが存在するのであろう。「吉本隆明の時代」のその吉本もさることながら、絓秀実が言う〈主体性〉とは、ネグリらの言う〈主体性〉と同義である。でなければ、革命的知識人の誕生という言辞は出てこないはずである。誕生=生産、そして吉本隆明の再生産、具体的、物理的なよしもとばななと、思想の再生産としての絓を見て取るとき、マクドゥーナルズとマルクス者は、現代にも脈々と再生産されている。
さて、話は69.01.18に遡る。朝5時45分、「こちらは時計台防衛司令部。ただいま、機動隊は全部、出動しました。すべての学友諸君は戦闘配置についてください。われわれのたたかいは歴史的、人民的たたかいである」。安田講堂の「時計台放送局」叫ぶ。安田砦攻防戦の幕が開いた。6時、日共(は~、今気づいたけどこれ〈ひきょう〉と読むんだ)宮顕指導部からのお達しで、あかつき行動隊も含めた民青系のゲバルト部隊は、角材を焼き、鉄パイプを捨てる儀式を行った後、赤門前をきれいに掃き清めて、全員逃走。7時、8個機動隊8500名、東大到着。医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始。機動隊は、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し、安田講堂を包囲。午後1時頃、安田講堂への本格的な封鎖解除が開始されるが、強固なバリケードと、上部階からの火炎瓶やホームベース大の敷石の投石、ガソリンや硫酸などの劇物の散布など、機動隊員の命を奪うこともいとわない攻撃を続ける全共闘学生は予想以上に抵抗。この攻防戦に篭城する全共闘学生は、諸セクト(革マル派はすでに撤退)も合わせて500名。「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ことを念頭に置き封鎖解除を進めたために、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は苦戦を強いられる。午後5時40分、警備本部は作業中止を命令。やむなく一旦撤収、放水の続行を残し作戦を翌日に持ち越す。
01.19 午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開。2日目も全共闘学生は激しく抵抗。12時30分、2階まで侵入。午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し、午後5時46分、屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。午後5時 50分、「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」。東大全学学生解放戦線の今井澄のこのメッセージにより安田講堂攻防戦は幕を下ろした。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。この2日間の闘いで、多数の負傷者、逮捕者が出るが、全共闘各派の767名の逮捕者のうち、東大生はわずか38名であった。攻防戦前、篭城することはすなわち逮捕を覚悟することであり、闘争の継続のため東大全共闘は篭城組と離脱組に分けられていた。それにしても、68.06に全学化した最盛期からの半年あまりで東大全共闘はかなり弱体化したことは否めない。それに漬け込むような形で各セクトが70年安保闘争の足がかりとして介入し、またそれにある意味頼らざるを得ない状況へと変質し、一般学生が学内への機動隊動員を許すまでに孤立化していた。最後は、いかに華々しく散るか、だけであった。これで、東大闘争は終息するのであるが、この闘争モデルは69年に全国的に各大学に拡散していくのであった。造反有利などのマオイズムやマルクス主義などの思想的背景があるわけではなく、スタイルとしての思想が表層的に模倣されていくばかりではあったのだが、東大闘争の異質性からして闘争の根拠や根底が真似されるはずもなかったわけである。
反帝国主義の時代の闘争は、学生運動に象徴されるような形で脈々と現在も市民運動へと繋がっているのであるが、反〈帝国〉時代の闘争は、いかにして展開されなければならないのか。次回、マルチチュード(下)で総括してみたい。



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