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Nonentity Youth [法の下の平等]

いやー、暑い。やはりまだまだ灼熱ラブである。どうやら中部圏あたりまでは梅雨が開けた様であるが、ジメジメしたニュースは後を絶たない、けれどもすぐに忘れられていく。また、例によってA HOU A KANで取り上げたカネと暴力の系譜学からの派生論の復讐で、まぁ、それと今更ながら非実在青少年について騙るのであるが、6/25、福岡県が全国初の表現規制として、暴力団を扱った雑誌や漫画を有害図書に指定した。例えば、実話時代 2010年 07月号 [雑誌]なんてのもそのひとつである。リンクの楽天ブックスでは、そうした背景でヒット化したのか売り切れになっているのだが(な訳ない)、要は有害図書を読んだことによりヤクザに憧れて道を極めるな! ということらしい。うーん、ま、全部で5冊ほど福岡県警が指定図書としているのであるが、リンクを見てもらうとその表紙の画像を見ることができるのだが、ばーん、と〈「福岡県警」の犯罪〉なんて記事がありそうだから、これはもう手前の都合の悪いことを書いてあるものは徹底して弾圧しようというような感じである。さて、復讐なのだが、こうした雑誌メディアも「情報の組織化」による新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持っているのであるが、最終的には恣意的に国家の暴力によって回収されることも、ままあるということである。国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有するのであるが、「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということなのだ。まぁ、例によって暴力を権力と読み替えてもらうとして、雑誌メディアにおいても良心的な社会の福祉に寄与するような、例えば、釣り専門雑誌であるとかであれば警察権力も大目に見るのだが、反社会的な暴力団を美化するような内容のものは、たまたま条例が発効されていることをこれ幸いに規制の大鉈を振るってくる、というわけだ。これは、県警は地方組織なのだけどここは国家権力と置き換えてもらって、国家権力がいわゆるチェック権力として対峙する雑誌メディアの有する権力を、法の正義という大儀でもって反体制的と断定して規制の対象とする例といっていいだろう。ここでも法適用の恣意性という問題がある。前回は、個人が法を無視するかどうかということで、法の無効化ということを書いたのであるが、国家権力が恣意的に「犯罪」として法を適用することで罪を成立させる主体である、がために「メディア」権力に対するような無視は、個人が取りうるスタンスとならないということである。この直接的な有形力のあり方が、どこまで法のみを根拠として覊束的に行われうるか、なのであるが、法自体に曖昧性(カオス)が在り、基準や標準をどう設定しているのかが判明でない場合に、さて権力の裁量は行為として、本当に〈正しい〉のかということである。法の世界は推定無罪であると言われるのだけれども、警察という行政は法律の世界ではない。単に違反や犯罪に対して法に基づいているものとして有形力(権/暴力)を行使する主体である。行為する末端の警察職員というのはロボットではなく、過ちを犯しやすい人間である。そこの倫理としての許されるべきものに、倫理なく規制する社会的正義の根拠を明確にしない限り、法が道徳を規制するという本末転倒は、議論上では水掛け論でしかないし、権力が行使されている場面では、権力の恣意性は免れることはできないはずである。結論からして、まずこの例の場合には、過去の言論裁判、最高裁判例を規範として、条例の限界である憲法を最高位として他の関連諸法律の範囲内での規制可能性の妥当性、などから逸脱していないか、条例の濫用に当たっているのではないか等を十分に満たすとして福岡県暴力団排除条例による指定ということを明確化すべきであっただろう。単に反社会的勢力の排除において、そちらの暴力の被害を市民から護るということであるからして、市民の反対、限定して市民運動団体からの反対というものもないだろうとして、福岡県警の警察官の未だ多々出てくる不祥事から目を逸らさせるための苦渋の裁量的な有害図書指定、にしか見えないのだけれど。まぁ、非実在青少年は実在しようがないのだけれど、現実的に暴力団は実在するから対象にしやすいことも、恣意的な指定に繋がっているのだろう。で、まぁ、県の条例であるからして、福岡県内では指定がかかって本屋とかで販売できなくなるのかよくわからないのだが、福岡県内で売られてなくても、上述したように、まぁ、たまたま楽天ブックスは売り切れだけどネットショップで購入することは可能なのだから、ある意味、現代的な規制でもないのではないか、という疑念も残るところである。要するに、確かに規制しているのは事実としても、合法的に有害指定図書はいくらでも買えてしまうというのが現実のような気がするのであるが。もうちょっと深く考えると、暴力団排除という条例も本当の意味で機能するのかどうかが疑わしいともいえる。いや、このおかげで暴力団は福岡県内から一掃されるであろう。が、例えば、大紋を単に政治団体の看板にまさに架け替えただけとしたときには、有名無実ということである。そして、こうした事態があるから権力は反社会的勢力に対して、合法として犯罪を仕立てることもあり、それは反社会的勢力の域を超えて市民側にまで及ぶ、いわば捏造やでっち上げなどということは大いに在りえる話だということである。非実在の推定無罪は、実在の有名無実を再生産するがため、閾値を越え出たところで冤罪も再生産される可能性に満ちているのである。ああ、怖い、怖い。へたな会談話よりも背筋が寒くなる(いやーいつも寒くさせるギャグ飛ばしてるからそれほどでもないか[ふらふら])実話の時代だ。




タグ:萱野稔人
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