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洗剤が耐えられない汚れ [法の下の平等]

えー、なんか知らぬ間に社労士試験は終わってしまって、ぼーーーっと、1週間が過ぎてしまった。次なる行政書士試験まで70日ほどしかないのであって、ぽーーっとしている暇はないはずなのであるが、兎に角、先週はぼーっと過ぎてしまった。思い立ったように、またぞろブログも書き出しているのであるが、社会派ブログとして例の行政裁判を模索していながら、結局、時間切れで断念することになってしまった。「時間とカネ」が無いということは、庶民にとってほんとうに足枷である。行政の不当を糾弾していかなければならないのではあるが、そうした限界が常につきまとうわけである。ああ、だからもう少しメディアはましなことを書いて欲しいのではあるが、劣化といってもいいほどに、弱小ブログと大差ないことを書いたりするメディアもあったりするわけである。民主党の代表選に、小沢一郎前幹事長が出馬の意向を表明したことに対する各紙の比較とでもいっていいこの記事であるが、「政治とカネ」の問題に決着がついていないことに対して、朝日は「あいた口がふさがらない」らしいのだ。まぁ、大方、庶民の真意を代弁しているには違いないのだろうが、一応メディアなのだから、呆れてるだけではどうしようもなかろう。それを思うと、この記事のように読売の客観的な視点はメディアとしての最低限のわきまえ、のように思える。メディアにおいての感情的なものいいは、扇動に繋がるある種の罪を秘めていないか、と思うのだが。しかもポピュリズム的な迎合性を思うと、決してサイコはネウヨではないのだけれど、左よりの朝日が、大東亜戦争時に犯した戦争賞賛報道の体質のまま左的に捻じ曲がっただけで実はその報道体質を伝統として保守しているのではないかとさへ勘ぐってしまうのである。まぁ、だからといって産経がいいと言うつもりもないのだけれど、最近は穏健的な読売から題材をパクってくることにしているのだ。
まぁ、「政治とカネ」の問題に決着がついていないのではあるが、あるリミットとして一般庶民のサイコの「時間とカネ」の問題は決着してしまった。実際、小沢さんあたりから〈カネ〉の支援があれば、間違いなく行政訴訟起こしていただろう(*´д`)=з 時間はもったいないので、弁護士先生にお願いするとしても、その訴訟の経過はじっくり研究するに値したであろうし、まぁ、滅多に無いチャンスではあったけれども、断念(*´д`)=з まぁ、過ぎてしまったことをいちいち思ってみても始まらないわけで、兎に角、次なるは、4回目のリベンジとなる行政書士試験である。まぁ、そういうことで、再度、例のエールで気合を入れることにしよう、なのであるが、うーん、ちょっと虚しいといえば虚しいのであるが、東京新聞にこんな記事が載っていたのでちょっとコメントしてからにしよう。代表選は党内部の問題といえば内部問題ではあるが、与党の党首が基本的に総理になるわけで、そうとも言ってられないわけなのだけれども、菅さん支持が7割、小沢さん1割5分に比して圧勝としているのだけれど、小沢さん支持がそれでも15%いるというのも事実。菅内閣支持率が20日前から比べて9ポイントほど上昇して、不支持も9ポイント弱減っているので、不支持から支持にそのまま乗り換えてる人が大半なのか、ということである。まぁ、それでも防災の日でもある今日から党首選が始まったのではあるが、国民はそれなりに菅総理に期待しているわけなのだけれど、それでもやはり代表選は党内で決せられるわけで、民主党員以外の庶民は蚊帳の外なのである。党員以外も国民なのだ、ということを小沢さんはわかっているのだろうか。なんだったっけ、「国民の生活が第一」だよね。まぁ、この辺にしておかないと朝日化しそうなので、例のエールを。

信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!



不存在の耐えられる重さ [法の下の平等]

先回の「Nonentity Youth」というのは、「つまらない若者」のことであるが、今回は思い話題である。
ぼちぼち顕在化するニュースかと思っていたが、やっぱりでてきた。足立区で最高齢のはずの加藤さん(生きてたら111歳)が実はもうとっくに亡くなって30年ほど経っていた、という話しである。今回は息子が本人になりすましたわけではなく、即身成仏として放置されていたのではあるが、そのことも重大な問題ではあるが、「生きているものとして」家族が年金をネコババしていた事実も更に重大問題である。とあるテレビ番組で言っていたことなのだが、本人になりすまして年金を不正受給するケースは、長寿国日本において出るべくして出てくるだろうということであった。しかしまぁ、そんな仏さんとひとつ屋根の下で生活し続けていたというのは異常極まりない。どんな宗教上の理念に基づいているのかは知れないけれども、現代人としては、死人とともに寝食するのは葬式くらいのことであろうと思われるのだが、それが常態化してしまうという感覚の麻痺は、ただただ気味が悪い、気色悪い。まぁ、こういうことこそ、不遜であり不尊なのであろう。そして続報としてこういったなりすまし、名ばかり高齢者は潜在しているということである。まぁ、それにしても足立区というお役所はお役所である。もっともらしい言い訳をタブロイドに書かれてしまっているのだが(まぁ、そうコメントすることを見越して書いているのであろうが)、住民票上のことでならば、今回は死んでた場合なのだが、じゃ、ママが出生届け出さないママだったらどうするのか。東京都の区は特別区という行政区分で、市町村と同じレベルでの行政を取り仕切る。区長は、まぁ、市長並みの権限をもっているわけなのだ。まぁ、ここで行政の懈怠を云々しても始まらないのだけど、足立区民で、要は税金で高齢者事業給付金なんか賄われているはずなので、いわゆる住民訴訟なりで、担当職員の業務差し止め(要は異動させろ願)と不正支出(ほんとは不正受給なんだろうけど)による損害賠償(国家賠償に匹敵するものね)を提起してもらいたいものだ。けど、思い出してしまった。そういえば、サイコは〇〇県警相手に違反の不存在を提起する訴訟をするはずだったんだ。うーん、まぁ、だから訴訟はハードルが高いとして、足立区の市民団体あたりは監査請求くらいはしてもらいたいものだ。それと、30年も発覚しなかったことから押して、50年くらい前であれば、ご近所の〇〇さんどうなった、なんてことからすぐその健在は顕在することと思われるのであるが、地域との密接性が変にプライバシー保護という形で隔離されてしまっているから、今回のようにずるずる見つからない事態になってしまうのだろう。それこそ戦時下の隣組みたいな共同監視体制を引けと言うわけではないが、ご老人に対してだけでなく、出生届出してたとしても幼児の虐待やそれこそ放置、なんていうこともありうるわけであるから、地域住民の安念のためにも机上の事務を超えた現場協力体制みたいなのも各自治体には必要になってきているのではないだろうか。それと、最後に、報知以下各メディアよ、率直に今回の件についての都知事の見解を取って来い!

まぁ、次は存在を賭けたのであるが、「労働の組織化」にあって、資本をいかに活用するかの戦略のなかで消えていく存在である。まず、三洋電機は能天気に、「お米からパン」を作るホームベーカリーGOPANを開発した。しかし、こんな画期的なものが、後半年で「SANYO」ブランドとしては販売されなくなるのである。一昨日、パナソニックは、子会社である三洋電機を完全子会社化することを発表した。これによって、来年度からは全てパナソニックというブランドになってしまうわけである。まぁ、こうなるとこの「ライスブレッドクッカー」を「SANYO」ブランドとしてのプレミア付きで買うのには、10/8に家電量販店に並ぶか、ネットショップで買い占めて、オークションで売り飛ばす、ということになろうか。まぁ、そんな余談はさておき、パナソニックは9000億円かけてTOBするということなのだけれど、その調達コストの半分を株式の増資で賄うため、先読み筋によってパナソニックの29日の株価は暴落であった。反転、30日は+65の1142円で引けている。今回、順張りで売っていたサイコはまたもや大負けである(*´д`)=з まぁ、長い目でみれば、「SANYO」の宣伝広告費は当然浮くわけであるし、と言っても05年の数値なのだが宣伝広告費は約150億円なので、まぁ、親会社にとっては微々たるものか。でも、「SANYO」の去年度の経常損益が300億円くらいだとすると、半分ほどに損を圧縮できるような計算であるから、それだけでも子会社としては助かるような感じである。まぁ、それと三洋の市場シェアをゼロ化して、そこに統一パナソニックというブランド戦略を仕掛けるわけでもあるから、市場占有率アップ=経常利益増ではないにしても多少の寄与は期待できるということか。まぁ、後は、資産の切り売りで9000億円をチャラにしようということだろう。それでも軒並み、格付け会社による社債のランクは下げられていたりするのに、日経平均も下げていたのに昨日は大幅反発である。わからん。まぁ、兎に角、「SANYO」ブランドは家電売り場から消えてなくなるわけである。まぁ、三洋電機といえばエネループで息を吹き返したかにみえたのであるが、パナソニック傘下に入って、結局美味しいところを持ってかれたことになる結果のように思う。まぁ、上述の「ゴパン」なんてのはほんとに最後っぺ的な粋を感じてしまうので、ついつい最初に紹介してしまったのであるが、企業の生き残りというのも実際厳しいということである。うーん、いやおぼろげに不安の雲を思い描いてしまっているのであるが、景気のてこ入れをなんとかして欲しいものである。しかし、国会は空転するのか? 何か新しい充電方法を編み出して欲しいね。

そして、この夏消え行くものがもうひとつある。菅内閣か、社民党か、はたまた自民党か、という高度な次元ではない。あの日清ラ王である。サイコも発売当初は、よく食したものである。生タイプの麺というところがこだわりとしてあったのだが、まぁ、普通のカップ麺の2倍くらいのお値段なので、スーパーで買い物するようになって、安売りしているカップ麺を買い溜めするようになってから、食指が遠のいた感である。それこそここ5、6年はカップ麺自体を食べなくなってもきているのであるが。そのラ王追湯(ツイートウ)式典が8月半ばまで行われるらしい。まぁ、タブロイドの最後の記述は粋である。「ラオウ(ラ王)が死して、悟飯(ごはん)が生まれる」なのだが、ごはん、とはカップヌードルごはんである。まぁ、レンジでチン商品であるが、時代とともに手軽さプラス味も進化するということなのか。

そして、双璧のタブロイドの雄のもう一方が論じるところ、今衆院を解散して選挙してもやはり自民党は勝てない、ということらしい。誤判(ごはん)か、と思ったのだがかなり説得力はある。先の参院選挙で自民党は大勝したわけではないということである。まぁ、民主党の退廃であっただけなのか。衆院選になるといわゆる小選挙区制なので、リテールで自民はせり勝てないということなのだろう。うーん、消え行くのは自民の運命なのか。まぁ、菅内閣の方が先に消え行く可能性は高いような感である。それこそ読売新聞の誘惑に乗せられて、衆院解散なんてのはやらないとは思う。来年は統一地方選挙も控えているわけであるし。ただ、小選挙区とは若干ズレはあるとしても、統一地方選挙の自治体ごとの選挙地区において、読売の仮説が正しければ、地方も民主党の躍進という結果になるのであろうか。まぁ、市町村長や自治体の議会議員などはそうなり得るとしても、知事選においてはどうなのだろうか。まぁ、現職強しということであれば、そうそう民主党が切り崩せるというものでもないのではなかろうか。知事選に限れば、先の参院選の結果は非常に参考となるところかと思われる。まぁ、いずれにしても今から米(兵糧)を蓄えておくことが肝心なのか。




Nonentity Youth [法の下の平等]

いやー、暑い。やはりまだまだ灼熱ラブである。どうやら中部圏あたりまでは梅雨が開けた様であるが、ジメジメしたニュースは後を絶たない、けれどもすぐに忘れられていく。また、例によってA HOU A KANで取り上げたカネと暴力の系譜学からの派生論の復讐で、まぁ、それと今更ながら非実在青少年について騙るのであるが、6/25、福岡県が全国初の表現規制として、暴力団を扱った雑誌や漫画を有害図書に指定した。例えば、実話時代 2010年 07月号 [雑誌]なんてのもそのひとつである。リンクの楽天ブックスでは、そうした背景でヒット化したのか売り切れになっているのだが(な訳ない)、要は有害図書を読んだことによりヤクザに憧れて道を極めるな! ということらしい。うーん、ま、全部で5冊ほど福岡県警が指定図書としているのであるが、リンクを見てもらうとその表紙の画像を見ることができるのだが、ばーん、と〈「福岡県警」の犯罪〉なんて記事がありそうだから、これはもう手前の都合の悪いことを書いてあるものは徹底して弾圧しようというような感じである。さて、復讐なのだが、こうした雑誌メディアも「情報の組織化」による新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持っているのであるが、最終的には恣意的に国家の暴力によって回収されることも、ままあるということである。国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有するのであるが、「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということなのだ。まぁ、例によって暴力を権力と読み替えてもらうとして、雑誌メディアにおいても良心的な社会の福祉に寄与するような、例えば、釣り専門雑誌であるとかであれば警察権力も大目に見るのだが、反社会的な暴力団を美化するような内容のものは、たまたま条例が発効されていることをこれ幸いに規制の大鉈を振るってくる、というわけだ。これは、県警は地方組織なのだけどここは国家権力と置き換えてもらって、国家権力がいわゆるチェック権力として対峙する雑誌メディアの有する権力を、法の正義という大儀でもって反体制的と断定して規制の対象とする例といっていいだろう。ここでも法適用の恣意性という問題がある。前回は、個人が法を無視するかどうかということで、法の無効化ということを書いたのであるが、国家権力が恣意的に「犯罪」として法を適用することで罪を成立させる主体である、がために「メディア」権力に対するような無視は、個人が取りうるスタンスとならないということである。この直接的な有形力のあり方が、どこまで法のみを根拠として覊束的に行われうるか、なのであるが、法自体に曖昧性(カオス)が在り、基準や標準をどう設定しているのかが判明でない場合に、さて権力の裁量は行為として、本当に〈正しい〉のかということである。法の世界は推定無罪であると言われるのだけれども、警察という行政は法律の世界ではない。単に違反や犯罪に対して法に基づいているものとして有形力(権/暴力)を行使する主体である。行為する末端の警察職員というのはロボットではなく、過ちを犯しやすい人間である。そこの倫理としての許されるべきものに、倫理なく規制する社会的正義の根拠を明確にしない限り、法が道徳を規制するという本末転倒は、議論上では水掛け論でしかないし、権力が行使されている場面では、権力の恣意性は免れることはできないはずである。結論からして、まずこの例の場合には、過去の言論裁判、最高裁判例を規範として、条例の限界である憲法を最高位として他の関連諸法律の範囲内での規制可能性の妥当性、などから逸脱していないか、条例の濫用に当たっているのではないか等を十分に満たすとして福岡県暴力団排除条例による指定ということを明確化すべきであっただろう。単に反社会的勢力の排除において、そちらの暴力の被害を市民から護るということであるからして、市民の反対、限定して市民運動団体からの反対というものもないだろうとして、福岡県警の警察官の未だ多々出てくる不祥事から目を逸らさせるための苦渋の裁量的な有害図書指定、にしか見えないのだけれど。まぁ、非実在青少年は実在しようがないのだけれど、現実的に暴力団は実在するから対象にしやすいことも、恣意的な指定に繋がっているのだろう。で、まぁ、県の条例であるからして、福岡県内では指定がかかって本屋とかで販売できなくなるのかよくわからないのだが、福岡県内で売られてなくても、上述したように、まぁ、たまたま楽天ブックスは売り切れだけどネットショップで購入することは可能なのだから、ある意味、現代的な規制でもないのではないか、という疑念も残るところである。要するに、確かに規制しているのは事実としても、合法的に有害指定図書はいくらでも買えてしまうというのが現実のような気がするのであるが。もうちょっと深く考えると、暴力団排除という条例も本当の意味で機能するのかどうかが疑わしいともいえる。いや、このおかげで暴力団は福岡県内から一掃されるであろう。が、例えば、大紋を単に政治団体の看板にまさに架け替えただけとしたときには、有名無実ということである。そして、こうした事態があるから権力は反社会的勢力に対して、合法として犯罪を仕立てることもあり、それは反社会的勢力の域を超えて市民側にまで及ぶ、いわば捏造やでっち上げなどということは大いに在りえる話だということである。非実在の推定無罪は、実在の有名無実を再生産するがため、閾値を越え出たところで冤罪も再生産される可能性に満ちているのである。ああ、怖い、怖い。へたな会談話よりも背筋が寒くなる(いやーいつも寒くさせるギャグ飛ばしてるからそれほどでもないか[ふらふら])実話の時代だ。




タグ:萱野稔人

A HOU A KAN [法の下の平等]

さて、選挙も間近である。といってもサイコはもうすでに期日前投票をしてきたので、済んでしまっているのであるが。まぁ、前に千葉県知事選に関して、選挙期間中は特定の党や特定の候補者についてブログでとやかく書くことは、ひょっとして公職選挙法に抵触する恐れが十分あるのでは、ということを書いた手前、今回もほとんど騙らないのではあるが、マスゴミというのはおかまいなしに特定の党をこき下ろすのに躍起である。例のゴネ得枝野幹事長が失言したと産経は書いているのだが、いやー立派に他党叩きしているように思えるのだが。まぁ、一部連合系列の公務員は犠牲になってしまっているのだが、朝日が書くような変な書き方をするな! というふうに思えるのだ。毎日の凋落は目に余るとしても、産経は右派のはずなのだから、朝日の劣化コピーになってはならないだろう。というか、擁護すべきであった自民党について書くことが無い、のかもしれない。それはそれなりに由々しき問題ではあるのだが、沈まぬはずの太陽も沈む時代であるからして、新しい時代に則した書き方になってきているのであろうか。そうした、「情報の組織化」の凋落を考えるために、前提となる本を簡単に紹介しておこう。


カネと暴力の系譜学  萱野稔人

ドイツ語でGewaltが暴力と権力とを意味するのに近い調子と思うと分かりやすいか、ここでの暴力とは、日本語的には権力の方がやはりしっくりくるものなのである。資本主義社会において、というかここで書かれている国家による暴力の独占、その正当化なるものは社会主義社会、共産主義社会においても同列であると思われるが、要は国家において、法の下の平等の実現という前提からその均衡を乱す者を法に基づいた強制力により処罰、排除することで暴(権)力の独占をなしうる、ということだ。後、「富への権利」、国家成立の基礎である「労働の組織化」というキーワードも出てくるが、簡単にだけ言うと、いづれも封建制において混在していた労働が、資本の運動という新しいシステムの出現によって政治的なものから経済的なものだけに分離独立を果たし、国家にたよらずとも資本によって「組織化」が可能となったのであり、封建制という政治システムの疲弊から領主や貴族が単にブルジョワに看板を書き換えただけで、ブルジョワ革命なるものによって資本主義が発生したわけではない、ということだ。少しつけ加えると、このブルジョワは大東亜戦争後の数年、否定的な意味で使われていた「市民」と同義かと思う。文字通りブルジョワ革命=市民革命だからだ。市民革命によって資本主義が発生したわけではない。
さて、大雑把に見たとおり、国家は暴力を独占したことにより、それによる脅しで国民から税という名目でカネを巻き上げている。資本の方は自前で「労働の組織化」を達成したことで、さらなる運動によって自らを増殖していく。国家が暴力の独占に特化したことによって、資本は国家に対峙したわけではなくそれを後押し、強化する手助けをしたということである。これを思うと、第二次大戦あるいは列強による植民地政策は、国家が暴力の独占を極端に拡張した形で国家どうしのエゴのぶつけ合いであったとも言えるし、大恐慌をエポケーして昨今の世界金融不安は、国家から自由になった資本が「労働の組織化」をグローバルな形で展開して加速度の付きすぎで、というか資本の増殖そのものに企業が付いていけなくて躓いた、ともいえそうだ。

さて、こうしてブログに起こしていると、現代ではもう一つの新たな暴力が増大しているはずなのである。そう、紛れも無くこうして発信するという行為そのものである。なにも罵詈雑言、暴言だけが暴力なのではない。暴力と言って分かりにくければ権力でもいい、以前に環境知能でも少し触れているのであるが、権力機構としてのグーグルという東浩紀の警告。やはり資本主義社会だけに限らず、社会主義国家、共産主義国家においても、社会体制によってその規制の緩急が異なりはするが、情報を統制する強制力を有する国家から「メディア」は形式上分離していて、資本が「労働の組織化」を成し得たごとく、資本により「情報の組織化」をも遂げることとなる。この資本を握っているのが国家であれば、それが体制の違いとなるということだ。だから、体制による違いは然程重要ではなく、国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有することとなる、ということである。これは「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということだ。これは大メディアに限らず所謂ネット上のこうしたブログについても同じである。検索エンジンによってその序列的表示選択順位が決定されているところに、前述の東は新たな権(暴)力を見ているということで、リアル社会とバーチャル社会がボーダーレスになってくるとバーチャルな社会による新たな暴力が侵食するリアル社会への影響をどう「処理」したらいいのか、という倫理の問題となるということである。
法の下の平等ということをよく言うのであるが、それは適用されてなんぼのものである。個人の選択の多様性を広げることは、それはそれなりにいいことであるはずで、今まで法が無い(欠缺)がために人たる尊厳を疎外されてきた者たちも確かに存在するわけで、何を恐れて保守陣営は、胡散臭く日本の伝統、文化、家族の崩壊などと、いまごろになって喚くのかが解せない。そんなもの、法制定前から、ずーーーーーーーっとプロパガンダし続けているのであれば分かるし、美しき日本のあり方というものも見えてくるはずなのであるが、この選挙前のから騒ぎというのが、どこぞの国で反グローバリゼーションの運動をしているお祭り騒ぎと同列に見えてくるのはサイコだけだろうか。まぁ、わしだけだとしても、最近ではマスゴミの「情報の組織化」による新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つということも、然程脅威ではないような感じである。というのも、資本主義社会において、昨今のような経済不安が存在している状況下では、「情報の組織化」はされても資本の運動が低調することと連動しているがため、その情報という暴力自体に差し迫った脅威を感じられないのである。まぁ、そういうこともあるし、読む人が読めば、その信憑性などはすぐに分かるわけで、情報の捉え方次第でマスゴミの有する別種の権力なども、すぐさま無力化してしまうということである。ただ、やっかいなのは、それこそ大衆に拡散されることで、各々に捉え方も一様ではないにも係わらず、付和雷同的な大衆という幻想を実体化してしまう、マスゴミの常套手段である。これを詐欺として訴えたものは稀であろうが、実体の無い、それこそバーチャルな世論という呪いをかけ続けられるがため、常に大衆は幻惑しているのである。まぁ、前の首相がブレてるとよく言われたのであるが、大衆はブレさせられ続けているわけで、焦点など定まるはずもなくて笑点とされているのだ。
ひとつ、社労士の勉強に係わらないとも思うのだが、法律を勉強している人であれば、人権問題というのに関連して、国籍条項が日本の諸法律において撤廃されているのは周知のことかと思われるのだが、例えば、国民年金法でも、被保険者の要件(任意加入被保険者を除く。)というのは、日本国内に住所を有する、20歳以上60歳未満の者、であって、どこにも国籍は要件とされていないのである。さて、これはいつからか。国籍要件の撤廃は、難民条約等が効力を生ずる日(昭和57年1月1日)に実施されているので、もう彼是四半世紀も経っているのである。なので今更、地方参政権を外人に認めることが脅威などというのも遅い話、いつの話という感じなのである。そして、連動して例えば、次の参議院選挙のような国政選挙も、外人の参政権を認めろに繋がる、みたいなことを言うアホがいるのだが、どっこいこちらはボロボロの日本国憲法に「国民(日本国籍を有する者)」しか認められていないわけで、外人の参政権を認める場合は、憲法を改正するしかないのである。ということで、保守派の法律家というのは、これ以上法律を覚えたくない、というのがほんとの本音、なのだけれど、そんなアホなことは口が裂けても言えないから、だけどちょっと考えなくても頓珍漢なことを建前にして、仮想敵を仕立てているとしか考えられないのである。はてさて、だから法律は建前になるのであるが、その法律という情報も捉える個人によっては、すぐさま無力化するもので、適用するかどうかなどは、個人の自由なのである。それが全面化する場面というのは、単に裁判所であるだけのことである。新たな法が施行されただけで、今までの社会生活が一変するなどとは大げさな物言いなのである。まぁ、信念持って反対している人もいるのだろうけど、傍から見ててイタイ感じになってくるわけである。
まぁ、そういうことで、信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!






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メーデー、メーデー [法の下の平等]

今日は、井上陽水なぜか上海をバックミュージックに、ここのところのニュースを総括してみよう。まぁ、なんといっても史上最大規模の上海国際博覧会が無事?開幕した。開幕前にPRソングの盗作問題で、結局、岡本真夜そのままの君でいてが公式PRソングとなったり、万パクなどと揶揄されていたのだが、兎も角、開幕した。まぁ、盛大な開幕式でもあったのだけれど、これは5/1というのは世界的にメーデーという労働者のお祭りの日なのだが、中国でもやはりそうで、特に共産主義という建前から労働者のほんとのお祭りの日、要するに勤労感謝の日で3日間祝日なのである。まぁ、だけどそこに照準をあわせてくる現在の中国というのも、何度も言ってるように共産主義国から協賛主義国に対外的には変貌しているわけである。まぁ、連休で万博に押しかけてくる物凄い数の人でトラブルも絶えないだろうけど、死人が出ないことを祈るばかりである。まぁ、サイコは宝くじでも当たらない限り行かないけどね。うーん、当たっても裁判するんだったか[ふらふら] さて、隣の国のお祭り騒ぎなんぞはどうでもよくて、今、巷で騒がれているのは沢尻エリカの動向だろうか。高城剛氏を事業仕分けするなんぞとは、おそろしやー。はい、高城氏は「メーデー、メーデー」と返信の無いメールを送り続けているのだろうか。まぁ、そんな緊急事態的な〈情況〉は、民主党幹事長も動揺なのだけれど、サイコはなぜか上海、じゃなくてそれでも民主党を応援してしまうのだね。ここにきて佐藤優の悪影響を受けているのだろうか。ということで、飛行機が墜落するときのSOSを「メーデー」というんだけどね、そういやー、プレカリアートの祭典はどうなってる?



タグ:雨宮処凛

協働通信 [法の下の平等]

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて 佐藤優


インパーソナルで紹介した浅羽道明が05年当時に「平成の名著」と絶賛していたこともあって、例の西村検事との対決がどんなものか非常に興味をそそられたので続けて借りてきた。まず、復習として、「インパーソナル」とは花田清輝という左翼評論家が晩年、好んだ用語で「経済上の利益を度外視した機能的な人間関係」という意味合いにサイコは取っていたのだが、佐藤の場合は将来的保証上の利益をも度外視した、謂わば「義理」と信条と道理とを曲げずに、西村検事と「機能的な関係」を結ぶこととなったようだ。西村検事(東京地検特捜部)が目指すところは、佐藤供述から得られる材料をもとに鈴木宗男逮捕(結局は別件のやまりん事件においてあっせん収賄容疑で逮捕)の突破口を開くことに、方や佐藤が目指すところは、「国策捜査」により逮捕された我が身において無罪を勝ち取れない諦観を抱きながらも、「歴史」の誤謬を記するための供述調書を作成させることにあった。西村検事においても宗男逮捕の突破口として佐藤の供述調書を作成することが当初の目的であったわけだが、互いの意図するところはた大いに違ってはいても調書作成という目的に互いが収斂していくこととなるのである。佐藤にとっては逮捕自体がまず不本意で道理に合わないわけで、当然罪状については全否認を通すわけであり、ただ供述にあたって、鈴木先生に累が及ばないように徹底しなければならず、当時佐藤が率いていた国際情報第一分析課内に設置されていた「ロシア情報収集・分析チーム」に被害者(逮捕者)が広がらないように腐心しなければならず、そうした桎梏の中で、しかもまさに囚われの身で「歴史」を刻まなければならなかったのである。こうなると西村検事はラクラク調書を作成できるかに思えるのであるが、佐藤がはぐらかして作成を阻止しているわけでもなく、道理として否認はするが供述しているため、要は特捜の欲しい供述が得られないという困難に突き当たるのである。当然、得たい供述のために西村検事は、いろいろと「ひっかけ」てくるのであるが、佐藤はことごとくそれを避けながら供述していくので、ある程度取調べが進んだ段階で、西村検事はある意味佐藤に歩調をあわせる戦術に切り替えていく。互いに感情移入はしないのではあるが、佐藤も上記の「義理」と道義と信条を「宣言」するに至る。けして手の内を明かしているわけではなく、「国策捜査」が道義を逸脱している不当に対して検察側の道理が何かを応えさせるのである。「国策捜査」とは何か。時代のパラダイムが変換するときに、体制内の旧体質的な違法性に世論という悪夢が過剰に処罰要求を高めるがために、それを背景として「訴追有りき」をもって象徴的人物を特定して断罪する捜査方法である。しかしながら、西村検事にしても、この佐藤逮捕においてはその「巨悪」の排除の理由を図りかねていたようである。佐藤の容疑は、国後島ディーゼル発電施設事件における偽計業務妨害罪支援委員会不正支出事件における背任罪であるが、世論がほんとうに巨悪=鈴木宗男関連事件を暴くことを欲していたのだろうか。旧体質を排除せんがために特捜は罪を組み立てるのであるが、それは排除すべき体質であったのだろうか。兎も角も、「訴追ありき」である。有効な供述を得るために、西村検事は外交について勉強し、佐藤に質問し、外交とは何かを知っていく。そうした直接には罪状を確定する作業とは関わりのないところをも、佐藤を知るがために外交について知識習得するのである。佐藤は特に変わった被疑者であったのだが、それを取り調べることが出来て、調書作成までこぎつけたのは、西村検事の特捜としてのプライドと納得がないところには関わらない性格だからできたことのようだ。佐藤もそうした西村検事の誠実さを認めるに至り、あるレベルまでの迎合を行うこととなる。しかしながら馴れ合いの関わりには堕すことなく、まさにインパーソナルな調書作成の協働作業が進められていくこととなる。

獄中年表
02/05/14 支援委員会不正支出事件における背任容疑で逮捕
     17 取調べで西村検事の攻撃始まる
   6/04 背任罪で起訴。勾留延長。
     19 鈴木宗男衆議院議員あっせん収賄容疑で逮捕
       これに抗議して48時間のハンスト決行
   7/03 国後島ディーゼル発電施設事件における偽計業務妨害容疑で再逮捕
     24 偽計業務妨害罪で起訴。再勾留延長。
   9/17 第一回公判
03/08/29 鈴木宗男氏保釈
  10/08 東京拘置所から保釈される(勾留日数512日) 

背任罪で起訴された後に保釈を請求することも可能であったのだが、敢えて佐藤は、逆に勾留延長を求めている。ここには佐藤のひとつの戦略として「クゥオーター化」を継続することがあった。「クゥオーター化」というのは外部接触を絶つことによって情報を遮断することを言うのであるが、娑婆にでることは自らになんらかの情報が入ってしまい、またそれを漏洩する危険に晒されることを意味する。鈴木に義理立てしているのであるが、敢えて拘置所に留まることで、任意聴取期間ではあるが検察庁の動向を探ろうという意図にも基づいていた。そしてなんらかの動きがあれば、唯一の接見者である弁護人を通じて知らせるということを意図していたのだ。それでも鈴木は逮捕される。それに対して佐藤は、強いメッセージを込めて抗議のハンガーストライキを行うのである。そして再逮捕、公判と流れていくのであるが、保釈の請求の機会は常にあったようであるが、敢えて留まっていたようである。それにしても512日に及ぶ勾留期間というのは長い。しかして、最高裁まで上告するのであるが、ついに09年6月30日付で上告が棄却され執行猶予付きで刑が確定してしまった。第一審の被告人最終陳述において佐藤は、時代のけじめとしての今回の「国策捜査」が何であったのかを述べる。鈴木宗男というケインズ型公平配分方式の社会から小泉純一郎というハイエク型傾斜配分方式の社会へとパラダイムが転換されたことで、旧態を巨悪として排除するためのものと。
さて、再度パラダイムは変換されたのではあるが、小泉にはなんら「国策捜査」は今のところ及んでいない。政権交代によって民主党が与党となったのであるが、その幹事長に「国策捜査」的な動きはあるのだが。佐藤は、「歴史」の断層で不条理にも社会的な制裁を受けることとなった。「歴史」としてそのまま刻まれる誤謬を、後数十年後に公開可能となる外務省文書によって裏付けるための公判闘争。彼はそう思おうとしているのだろう。そして、行間からは地検特捜部の本質的な「排外的ナショナリズム」に裏打ちされた権力が、宗主国たるアメリカによって操作された帰来を感ぜずにはいられない。そう見ることによって、今回の一連の民主党幹事長へのアクセスというものも腑に落ちる感じである。



インパーソナル [法の下の平等]

天皇・反戦・日本  浅羽通明同時代論集治国平天下篇

浅羽通明という人はルサンチマンの人かと思っていたが、まったくサイコの誤解であったようだ。すでにこの人の本を何冊か読んでいるのだが、この本もタイトルだけからすると、完璧右翼か? と勘違いしてしまうのであるが、全く右よりではない。保守中道というものは大体からして、右派的な要素というものを最初から含んでしまっているので、ちょっと過激に、先鋭的にものを言ったりすると「右翼マンガ」という反動的な過激発言で返されてしまうことは、ままあるとしても言ってる本人の「次元の高い論争」というものを自ら低レベルに堕してしまう陥穽であるようだ。その陥穽をみごとに回避して、あるいはその上に乗っても落ちない身の軽さというものが浅羽には感じられるのである。うーん、神か? 浅羽がここ20年近く発行しているニューズレター「流行神(はやりがみ)」というタイトルからして、ちょっとはそんな自負を持ってたりするのだろうかとも勘ぐるのであるが、まぁ、昔取った杵柄でカルティックなニュアンスを滲ませているだけのことではあろう。さて、その「流行神」からテーマ別にピックアップして現在的に加筆・編筆した集大成が天皇・反戦・日本である。まず、浅羽が以前はよしりんのブレーンであったということで、当時のゴー宣で、「ロイヤル爆弾」なる過激さをある意味讃えるような文言も出てきたりする。と、思いきや流行神 No.199(05/07/24所出)からでは、よしりんと諍いのあった例の佐藤優国家の罠を平成の名著と讃えていたりもする。後、例によって、香山リカをプチナショ絡みで批判してたりする小気味よさもあったりと、浅羽の感覚はある意味サイコに近い感覚なのである。後、改憲に関するところで、「前文削除」というのも目から鱗である。もともと、法律家を目指していた人だけに、憲法に対する理論的な思考(解釈ではない)というものは明晰で、イデオロギーを排した上で最も単純でそれこそ右も左も認めざるを得ないのは、憲法は単純に全ての法律の基礎だ、ということである。憲法(条約が含まれることもある)は全ての法の最高位にあるというだけのことである。そこにいらん主義主張が介在するから、例の井上薫のような元判事が反動的道徳論を法に介在させようとする本末転倒的な解釈も出てきたりするわけである。
余談はさておき、流行神 No.199からの「協働体日本の方へ - 佐藤優『国家の罠』を読む」では、「インパーソナル」というキーワードから、サブカル的なのりで「国家の罠」を書評している。ここで、「インパーソナル」というキーワードは、浅羽が学生時代に全集を読破した花田清輝という左翼評論家が晩年、好んだ用語で、経済上の利益を度外視した機能的な人間関係、という意味合いらしい。ここで、花田が好んだ史上の例として、舅である滝沢馬琴とお路との協働関係について、例示的に「インパーソナル」なものとして2例あげている。ひとつは、アニメ/ルパン三世「カリオストロの城」のルパン三世と銭形警部との敵対する者であるにもかかわらず、目標とするものの遂行上の同時性から協働的な行動となる関係。今ひとつが、佐藤優が「国策捜査」で逮捕されたときの、西村検事との協働作業としての調書作成である。両例示も相対する者同士には、立場としての反目がありながら、ひとつのミッションを協働する関係が成立しているのだが、絶対に「握手」はしないのである。話をおおもとの、舅である滝沢馬琴とお路との協働関係に戻すと、「馬琴とお路は、前近代的上下関係が(脱)近代的協働関係へ止揚された例」(「天皇・反戦・日本」第四部 日本国を構想するP239)で、ここでこのアウフヘーベンという用語でもって、浅羽は止揚前止揚後というふうに使用しているのであるが、サイコはこれがイタク気に入ってしまった。まぁ、それは余談としても、現体制化でのアニメというフィクションの例と、佐藤のノンフィクションの例がまさに現代の「インパーソナル」なる関係だということである。要は、諍いでなく佐藤とよしりんもこの「インパーソナル」なる関係性へアウフヘーベンしなければいけないんだろうなー、というところである。まぁ、後、浅羽自身においては、その協働的な相手とは 大塚英志なのだろうか。互いの領野でもってサブカルを止揚すべく、激烈に批判しあうような感覚というのは、多分、浅羽としては「インパーソナル」な関係を築いてもいいか、ということなのだろう。ちゃんと江藤淳と少女フェミニズム的戦後に対する批判も取り上げているところかして、そう思う。まぁ、兎に角、ヘーゲル的な近代には戻れないのではあるが、アウフヘーベンというロマンを非人間的にでも作動させるしか、現代の論壇的状況は高次元へと進まないようである。それがインパーソナルでなければならない、という現代への解答なのであろう。





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クローニン [法の下の平等]

1968(上) 若者たちの叛乱とその背景

やっと小熊英二のほうを読み出したのであるが、なにせ1091ページもあるから当然、貸し出し期限中に読みきれるわけがない[ふらふら] 渋々返してまた予約取ろうと思ったのだが、また誰か借りてるし。あんなぶ厚い本を読もうと思う奴の顔が見てみたい[ふらふら] そういえば産経新聞でさらば革命的世代というコラムが去年の6月くらいまで1年ほど連載されていたのだが、そのコラムを「全共闘世代は決して読まないだろう」という意見が複数寄せられたそうだ。ということは多分この1968(上)も、アラカン世代は敬遠しているであろうとして、まず活字離れしているような現在の10代から30代であんなぶ厚い本は借りないだろうし、40代のお父さん世代では、興味はあるとしてもあんなぶ厚い本を読む暇がないだろうし、だとすると子育てもひと段落した40代後半から50代の大学生以上の子供を持つ、なんらかの市民運動っぽいものに参加しているようなお母さんしかありえそうにないのだけれど。返却したのが平日の時間外だったから、平日借りることが出来るという物理的条件も考えると、40代後半からの女性というところしか浮かんでこないのだけれど、女性が読むかなぁー、というところは少し懐疑的ではある。まぁ、それはいいとして、時代的・世代的背景(上)─政治と教育における背景と「文化革命」の神話/時代的・世代的背景(下)─高度成長への戸惑いと「現代的不幸」/セクト(上)─その源流から六〇年安保闘争後の分裂まで、までを読んだのであるが、前もって絓秀実のほうの1968年1968を読んでいたので、特に「セクト(上)」あたりの一次ブントの流れは肉付け的によく理解できた。しかしまぁ、東大細胞であった例の西部邁が自ら暴露しているのだが、59/11の東大教養学部の自治会委員長に当選した選挙のときに、結果を改竄していたことには呆れ返ってしまう。共産主義(根っからのスターリニズム!)であって民主主義ではないわけで、党派的な争いになにがなんでも勝利しなければならなかったのが、一次ブントの本質だったらしい。西部は当時を回想して、「革命」とは純粋性とか徹底性とかを表す理念語、としているが、実態としては卑劣漢でしかないわけで不純極まりない。というのも、まぁ事後的ではあるが、60年安保闘争が臨界に達するのは、5月20日に衆議院で新条約案が強行採決されたことに対してで、「民主主義の破壊である」として一般大衆をも巻き込む正義に基づいているわけだからである。それを一次ブントが牽引するのであるからおかしな話である。まぁ、あと60年安保で運動を牽引していた裏で、活動費の枯渇から島成郎書記長が右翼から資金提供を受けていたというのも絶句する。そして全学連第16回大会で、東大、早大、明大、女子美等学生細胞中心の「革命の通達派」(革通派)が主導を主張したことで、学連書記局細胞中心の「プロレタリア通信派」(プロ通派)による東大主導のエリート主義的な態度が気に食わなくて分裂してしまうわけである。とは言え、実質的解体はなんと60年安保闘争最頂期以前に、度重なる指導部の公安当局による逮捕ですでに直面していたのであり、中心なき烏合の衆が奇跡的に大衆を動員し、またその大衆に紛れてしまっていたということである。その総括、ブント第5回大会において、ブント全学連の闘争は正当に評価されるべきである(産湯と共に赤子を流すべきではない。再突入が出来なかったのは権力奪取の思想がなかったからである・姫岡怜治=青木昌彦)とするプロ通派と、「闘争は敗北と総括すべきである。敗北の根因は、国会再突入をためらったブント指導部の日和見主義と、その日和見主義をもたらす経済理論(姫岡玲治国家独占資本主義論=自己金融論)にある」(東大細胞意見書・星野中論文)と断罪した革通派で60年安保を敗北と見るかどうかで分裂したのである。後、ブントの事務局や出版を担っていた戦旗派(ブント機関紙「戦旗」が由来)は、安保闘争は学生運動主体の小ブル急進主義運動に過ぎない。労働運動への革命的転化を目指すべき前衛党理論と指導の不十分さとして総括すべきであるとした。まぁ、こうして一次ブントは解体、消滅へと進んでいくのであるが、これは東大細胞分裂事件(1947/12 雑誌「近代文学」に影響された東大学生党員が分派活動を行ったと非難され、日共が戦後初の大量の除名処分をした事件)に似ているといえば似ている。ただ、東大細胞分裂事件は日共指導部が上から除名という圧力を行使している点と、ブント解体は革通派が指導部を突き上げたことで分裂した点は大きくことなるのであるが、細胞は成長するにつれて分裂していくということでそう感じるのである。まぁ、しかしながら、細胞というのも栄養が行き届かなくなると死んでしまうわけで、革共同第二次分裂のときに設立していた革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)に戦旗派(森茂など)とプロ通派(清水丈夫・西部邁・青木昌彦など全学連書記局グループ)の一部が合流していくことになる。



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でっかいどー [法の下の平等]

東京地検特捜部による事情聴取を受けた小沢幹事長であるが、取り敢えず一山越えた、というところだろうか。その後の記者会見も「一応」筋の通ったもののようである。まぁ、それとして、例の元秘書の石川知裕(ともひろ)衆院議員は、さてどこの選挙区から去年選ばれたのであろうか。なんと故中川昭一元財務・金融相にあっさり勝ってしまった北海道第11区からである。あ? 怨念か? しかし弟子の逮捕でフライング気味のタブロイド紙の記事に目が留まったので、それを出汁に自民党を斬ってみよう。議員起訴なら遺族が弔い合戦?といタイトルなのだが、日本国憲法第50条には「両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。」とあるので、18日から始まった第174回通常国会で衆議院で3分の2以上の可決があれば、石川衆院議員は国会議員として、娑婆に戻ってこれることになる。まぁ、その動きはないのだけれども、当然野党は大反発であろうが、そういうふうに法で定められているのだ。また、釈放請求がないとしても、当然、野党から辞職勧告決議案が出されたとしても、過半数なければ成立しないので、議員辞職は仮に石川議員が望んでも、民主党内で保留されるに決まっている。まぁ、だから早くも北海道第11区の補欠選挙などというのは、先走り過ぎというより、まず可能性としては薄いのである。というか、参議院選挙前にそんな負け戦を民主がわざわざやるはずがないではないか。思うに、自民党体質下では起訴までいけば辞職が当然という公式しか眼中にないというか、自分のご都合主義的な妄想でしかないようである。しかし、ここで、なんでこんな大袈裟なことになってしまったかを同じ日刊ゲンダイは伝えている。石川議員の元私設秘書の密告によって一連の捜査が行われてきたようなのである。うーん、参院選に出馬できなかったことへの、「怨念」だそうだ。しかしまぁ、後は凄い余談だとしても、呪われた選挙区である。最近大きな地震が世界中で起きてるから、恐山の怨念も地殻変動したのであろうか。まぁ、それとして、逮捕前に石川議員がちょくちょく連絡をとっていた元外務省主任分析官の佐藤優氏というのは、沖縄とアイヌの真実よしりんが対決を求めたにもかかわらず拒否した人である。そして佐藤氏が外務官当時ふっとーいパイプを持っていたのが、昭一氏の親父である中川一郎氏の弟子である鈴木宗男衆院議員である。まぁ、ということで例の佐藤氏は、「今回は国策捜査ではなく、民主党と官僚組織の権力闘争だ」と言ってるのだが、よっぽど官僚機構に対してルサンチマンを持っているようだね。まぁ、だけど公安と闘っているサイコとしては今回の検察との闘いはある意味応援するところであるから、ここで埼玉大学、日本大学芸術学部兼任講師の山崎先生の激烈な小沢応援ブログを発見したので紹介しておこう。あ゛しまった! イタイ[ふらふら] やっぱりイタコが11区に潜んでるんだ。
まぁ、この先生、マンガ右翼を全批判するわりには、おんなじ様な趣旨に帰結しているのね。完璧に、右か左かで別れる事柄は別としても、地検特捜部をアメリカの犬とする批判の方法論は、よしりんのそれと変わらないように思うのね。だから、嫌悪による回路の遮断みたいな感じなのに、『屈折した「恨みつらみ」に凝り固まったニーチェ的な「ルサンチマン』なんて表現していることが、そのまま本人の自供に映ってしまうから、イタイとしか言いようがないんだよね。




あまりにも革命的な [法の下の平等]

えー、先回書いたように14日づけで異議申立書を配達証明郵便で郵送した。かくして壮絶?な公安との戦いの幕は斬って落とされた。うーん、だけど今更後悔しても仕方ないけれど、配達証明だけで800円かかるのよね(*´д`)=з これで棄却されたときには自分で裁判する(行政監視・本人訴訟マニュアル)にしても、まぁ、行政は国民の権利利益を無視しているんだなぁ、経済的負担と手続き的な煩わしさがあるから、大半の国民は泣き寝入りさせられてしまうわけだ。まぁ、サイコの場合は授業料払って理論を実践に展開しているようなところもあるのだけどね。まぁ、でも面倒くさい。ほんと一般の国民では負担がかかりすぎるから、意地でも異議を訴えるとなると代理人を立てるのが時間的余裕を持てるので、ベストかなぁ、ということだね。だから、裁判スケジュールなんてのは、昔にくらべればスピードアップしているかもしれないけれど、それでも提訴して1、2週間で判決なんてのは流石に無理だろうから、弁護士先生にほぼ一任しておくのがベストなのだけど、費用対効果という点ではねぇ。普通の人はここで「めんどくせぇー」て諦めちゃうんだよね。
まぁ、そういうことで、続きである趣旨と理由なのだけれど、出し惜しみするわけではないのだけれど、次回以降にするとして、今回は公安と五分に渡り歩くための? 秘訣でも書いてあるか、ということで1968年について、予習的に書いてみたい。まず〈民主〉と〈愛国〉のおさらいからだが、進め!民族独立行動隊で書いたように六全協が開催されるまでの戦後10年間の日本共産党は、所感派を主流として武装闘争路線を展開する唯一の愛国の党であった。六全協によって、その武装闘争路線は完全に放棄されるのであるが、これは朝鮮戦争の休戦以後、米ソの冷戦構造が浮き彫りになる中、スターリン死後のスターリン体制の緩和としてソ連が打ち出した「平和共存政策」に協調した結果で、六全協以後の日本共産党は平和的に国会において議席を増やすこと(微笑戦術)を路線とした。所感派の武装闘争が放棄されたことにより、これ以後は宮本顕治の国際派が主流となるのであるが、これはソ連の「平和共存政策」と呼応しているわけである。「〈民主〉と〈愛国〉」では、所感派の活動を論証の主軸とするところ、「1968年」では、新左翼の前史として、国際派の「平和共存」を論証の主軸としているのであるが、こうした両書を相互補完的に読めるような作用は、批判、批評として絓秀実の秀逸とするところである。ただ、あくまで「〈民主〉と〈愛国〉」では全共闘は論旨とするところではなかったので、絓が「1968年」で敢えて批判しているわけではないのだが、サイコとしては小熊英二の長い注釈よりも流石に文芸批評家の本領として両書を繋げてみているのである。また、ベ平連鶴見俊輔を無批判に受容し検証なく分析した結論、と他で批判した絓であるが、「1968年」で表立った批判はないのであるが、確かに小熊は楽観的であるとサイコも思った。
さて、以上も余談ではないのだが先を急ごう。まず、平和共存路線に転換した日本共産党から決別する黒田寛一太田竜らが、1957年に日本トロツキスト連盟(58年に革命的共産主義者同盟(革共同)に改組)を結成。それ以後(革共同第二次分裂も含む)の流れは革共同のリンクに詳しいので省くが、63年2月、革共同全国委員会が、議長・黒田寛一派(革マル派)と書記長・本多延嘉派(中核派=革共同全国委として残った派)に分裂(革共同第三次分裂)すると、学生組織も革マル派と中核派に分裂した。 *注 上部組織として各党派が存在し、その下部組織として学生組織が成り立っているのは、だいたいどの党派も構造的に同じである。後同じなのは「革命を目指」していることだが、理論と方法、手段はそれぞれに様々である。それぞれのリンクを参照先。
次に58年12月共産主義者同盟(ブント)結成。60年安保の高揚を支えたが以後解体(一次ブント)。66年二次ブント結成。
次に全日本学生自治会総連合について。結成は48年。結成当時は日本共産党の強い影響の下にあったが、55年7月の六全協で日本共産党が武装闘争路線を放棄して微笑戦術に方針転換することに対して、全学連ではこの方向に批判的なグループが、元国際派学生を中心とした第一次ブント結成に流れていく。全学連はこのブント指導の主流派と共産党指導の反主流派(のちの全自連)とに分裂したままで60年安保を迎える。60年安保後に第一次ブントが解体した後は、反主流派から全国学生自治会連絡会議(全自連)が結成され、「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議(平民学連)」結成などの再建運動を経て民青系全学連として再建される。
67年羽田闘争には三派「全学連」として、第二次ブント、中核派、社青同解放派が登場した。その後、三派「全学連」は解体し、中核派「全学連」と社会党社青同解放派、共産同(ブント)系の反帝「全学連」が指導権を並立する。
東大闘争まで、というか60年代において革マル派は全学連としては独自行動を行っており全共闘としては闘争していない。
三派と構造改革派プロレタリア学生同盟(プロ学同)・社会主義同盟(フロント)は全学共闘会議(全共闘)に結集していくこととなる。
以上がざっと69年1月18日から19日に起きる東大安田講堂事件を頂点とした全共闘運動における、各党派の成立及び結集、離散の流れである。ただ絓が「1968年」が提起した現在に繋がる課題とするものは、ある一点を持って決定的となったとしている。それが1970年の七・七集会における華僑青年闘争委員会告発であるが、やはりここでも予習的にまず善隣学生会館事件を読んでから、その共闘の過程を経ての告発がなんであったか、そして40年前から今に繋がる新左翼諸党派の活動の背景が見えてくると思われる。ということで、今日はここまで。


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