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ブラックユーモアー [ちょっと哲学的]

おざわせいじ復活! いやー、小澤征爾氏には大変申し訳ないんだけれど、別の小沢さんの政治が復活しそうな感じで、ちょっとタイミングが良すぎる、というのは別の小沢さんの悪運をいっているのだけれど、まぁ、兎に角、よかったです。リンクの記事にもありますが、「小沢さんの元気な姿を見られてよかった。(小沢さんは)日本の宝です」って、ファンのコメントとか載せてますが、ここは「征爾さん」のほうがねぇ~ というのは、まぁ、ブロガーに限りませんが、検索というのをよくやると思います。例えば、小沢 日本の宝 で検索すると、やっぱりなサイトにぶちあたります。ただ、今回の「征爾さん」復活で、ロイターの記者? がわざわざ上述のようなファンのコメントを載せてるのは、ギャグのつもりだったのではないか。だとしたら凄いブラックジョークである。いやーそっからまた日本メディアの社員の劣化をなげくのもなんなので、例によって最近読んだ本でも紹介しておこう。それでは、2冊同時に、どうぞ~


エチカ抄  佐藤一郎 編訳      スピノザ 実践の哲学  ジル・ドゥルーズ


エチカに限らずスピノザの視点は、あくまで神は絶対視しても超越的地位を与えているわけではない。神はそこ、に存在しているのだ。そこにあるとは、所与としての自然、宇宙に対して人が覚知できるその全体を形成しているということである。ここで慎重に「人が認識している以上に」とか、「超えて」ということばを使用せずにおかなければならない。なぜならば、認識する人自体が、その宇宙、実体(神)の一部であるからである。しかしながら、〈人〉は有限である。時間的な意味〈死〉でも空間的な意味〈身体〉でも限られた世界しか認識できない。人(実体の一部)は実体の一部しか認識することはできないのである。そして、その認識の正しさは神から受け(受動し)ているのであるが、それは各人各々の神への働きかけ(能動)によって認識されるのである。まず、第一種の認識という段階。人の身体の延長としての運動と静止にあって、混然としている状態、様態を不十全に把握している段階。人が個物(または自己ではないもうひとつの身体、他人)と出会うとき、なにがしかの影響を受けることで人は変容する。それはよくも悪くもである。いいことが増えるばあいは、喜びが増すことであり、愛が満ちるということであり、力能が増すという能動的な様態である。悪いことが増えるばあいは、憎しみ、悲しみであり、力能は減じられ受身的な様態となる。この悪しきものを減じること、そのために、人は「共通概念」をもち互いの力能を集めたよりよい人工的な自然(社会)状態、様態を作らなければならない。
このエチカ抄は、抄としているので全文を訳しているわけではなく、第1部、2部、5部は全文、第3部は「命題」13の備考まで、第4部は「命題」8の論証までが訳されている。方やドゥルーズの方は、第3、4、5部にあたる部分を中心にして解説しているので、双方は補完しあっているような具合である。これはたまたまだったのだが、双方をチョイスしてきて大正解なのであった。というのも、エチカ抄を読むのに若干難渋したからである。エチカ第2部の命題13は「人間の精神をつくり成している観念の対象は体である」としていて、これはスピノザが批判したデカルトにおいてもいわれる心身並行論の一系である。そして、両著述の訳者は、心身平行論ではなく「並」を使っているが、「並」は学際的な使われ方か、平らの方は論文からはあまり見かけないけれども、アマゾンとかのレビューでよく見かける。まぁ、どちらが正確なのかは今一わからないけれども、訳出する人によっての違いなのか。因みに、平行は「どこまで行っても交わらないこと。」、並行は「並んで行くこと。並んで行うこと。」なので、ユークリッド幾何学を低層に思推されたことを思うと「平行」もいつか交わるようなので「並」の方が意味はあっているように思う。まぁ、それはともかく抄には閉口したわけである[ふらふら]
さて、バンヴェニストが、「能動・受動」に代えて動詞のプロセスとその動詞の主辞とのあいだの位相関係をもっとも的確に表す文法概念として「外態・内態」を提唱した。主辞の表す動作主体がそのプロセスの外部に立ち、プロセスが「主辞に発して主辞の外でおこなわれる」かたちでとらえられる場合を外態といい、反対に主辞の表す動作主体がそのプロセス自身の内部に立ち、プロセスが「主辞(sujet)がプロセスの(主体sujetであるというよりむしろ)主座(siege)である」かたちでその展開のプロセスがとらえられる場合を内態という。 - 鈴木雅大 付論「の変容、の観念----スピノザの内態の論理」(平凡社ライブラリー『スピノザ 実践の哲学』所収 297頁) スピノザは「エチカ」をラテン語で書いている。ここでもう一つ重要なのが、ロマンス諸語で多様される再帰動詞である。訳者の鈴木氏は、「スピノザにおいて、動詞〈ある〉は再帰動詞となるのである」〈 同 「訳者あとがき」(同 291頁)〉 として、エチカが、神を一義的に原因として人が観念を持つという捉えなおしの連鎖というプロセス、を主辞として書かれたことを強調する。構成関係の合一・形成〔の認識〕を常に既に内在化する連続として、そのプロセス自体を主語化すること(動詞の人称化=再帰動詞)が内態である。内在化の論理の連鎖、切断が内態の論理ということとなる。まさにそうであるし、訳者の感動は自己言及的にわかるのだが、ただ単にサイコ的には、ラテン語が理性の言語であるからそれによって書かれたのではないか、とも思うのである。それならば「ヘブライ語文法綱要」という未完の書も遺しているスピノザがなぜヘブライ語で「エチカ」を書かなかったのか、と言われるであろう。それはユダヤ的な戒律からの自由と、幾何学を書くためのギリシャ語には疎かったから、いや、ギリシャは多神教であるため(スピノザの神は一つの実体なので)、そして、学術書は概ねラテン語で書かれたためであったから、だと思うのだ。推測の閾をまったく出ないのではあるが、訳者の思い以上にスピノザを取り巻いていた当時の社会情勢からして、ユダヤ教のラビのようには書きたくないし、カソリックに寛容があるとすれば、そこで流通する言葉で敢えて書いた、か、それが自然(普通)に神に通じる言葉であったか、でしかないように思うのである。
まぁ、極端に端折って、第3種の認識という、至福の静止状態を理想として、エチカ(様態の倫理学)は、神学的隷従支配(簡単に言って教会という抑圧装置)がその当時の人々に強いる道徳からの解放の書であったはずなのである。しかし、その意志はスピノザの死後数年忘れ去られていて、皮肉なことに神の死を宣言したニーチェによって再発見されるのである。しかしながら、思えばもともとはスピノザもニーチェも神学の徒であったのだ。抑圧という神の属性ではないものが介在する教会という支配体制の中で、その違和感に気づき、教会なしで、あるいは神そのものなしでも〈理性〉は高められる。その実践の系譜である。
さて、神もいなくなった、共産党(中国にはあるか)もなくなったはずなのであるが、マルクスの亡霊とエチカが合体したのがマルチチュードである。そもそもなんで「エチカ」を読もうと思ったのかは、「マルチチュード」の監修者解説においてスピノザの政治的概念(共通概念)についての件がきっかけなのである。なるほどスピノジストであるネグリならば、結論的にはそうなるか〈2010/06のプログ参照〉というふうに合点がいったわけである。まぁ、ドゥルーズ亡き後、スピノザからニーチェの系譜を継ぐものは、ネグリぐらいしかいないわけなのだろう。まぁ、兎に角、「マルチ」の続編に期待したいところである。

そして、民主党の党首選もクライマックスに近くなってきている。これは公職選挙ではないから思う存分にエールを送れるので、再び例のシュプレヒコーール!

信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!



タグ:スピノザ
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潜在の耐えられる重さ [ちょっと哲学的]

とあるカフェで、上品に香りたつコーヒーを味わいながらブログを書きたいところであるが、まぁ、試験も近いことだし、殺風景な自宅で、株主優待で届いたIT〇〇の缶コーヒー(タリーズコーヒー)を飲みつつ、取り敢えず前回の続きのような感じで。
お役所仕事はお役所なのであるが、ご長寿の健在を確認することは懈怠しておきながら、政治家のスキャンダル探しには躍起のようである。まさにこの記事の最後に「組織防衛に必死な役人ども。他人のスキャンダル探しをするヒマがあるなら仕事しろ!」とあるのだが、同感である。なのであるが、ここで露顕してないのは、その醜聞が知らされるのは雑誌メディアによる、ということである。いや、そんなのわかってる、と言われるが、「メディア」とは国家権力と別種の暴力を持つことによりぎりぎりまで国家と対峙するはずのものが、国家の暴力に利用されていると言うことである。いや、そんなのわかってる、と言われるかもしれないが、こうなると「メディア」は別種の権力を選択して行使しているだけに見える。いわゆる恣意によって攻撃するものは、国家権力であるときもあり個人であるときもあるということである。さて、政治家というのは公人である。個人ではあるが、遥かにそれを超えて国家権力に近い存在である。このカオスな存在を攻撃対象とするということはどういうことを意味するのであろうか。わかりやすくするために、組織だけに限らないのだけれども、国家という幻想共同体を実効的に運営するためには、行政(官僚)という組織体が必要である。その行政の肥大化をけん制するために立法(国会)と司法(警察)という組織体がある。国家権力もこうして三権に分立することで互いをチェックする機能をも持たされているのであるが、どの組織、民間の会社組織もしかり、組織体の意思決定のために長が存在する。組織というピラミッドの頂点に長が存在するのであるが、ピラミッドの階層を順番に降りていくごとにも、派閥的に小さなピラミッド集団が存在し、やはりそこにも長がいて、意思決定を行っている。官僚の場合は上意下達のごとく、大なるピラミッドを細分化すれば同様なピラミッド組織でしかないのであるが、国会(立法)においては現在の捩れが象徴するごとく、様々な意思決定集団を「数」において序列化しているだけであるので、少数派においても発言することにおいては平等的であり、多数派や主流派(取り敢えず今は民主党ということで)の戦略との合致があれば「数」の論理を超える可能性はある。まぁ、最終的には「数」の論理でしかないのだけれども、様々な考え方の集団によるカオス体とも呼べるべき組織体なので、官僚組織体的な細分化は不可能である。ただ、そうした政策集団としての政党においても官僚的とまではいはなくてもピラミッド構造自体は同様である。さて、そうした三権分立において、官僚(行政)と政治家(立法)がけん制を超えて対立することも、国家という暴力構造内でしばしば起こりうるだろうし、一方がかなりドラスティックな改変を強制しようとするときには、抵抗はもちろんのこと、封じ込める以上の反撃もありうるだろう。まぁ、大きな国家組織内での内輪もめ的にしか下部構造の市民には見えないのだけれども、その上部構造の行動をチェックするという大義名分でもって「メディア」はそこに不穏な動きがあれば〈真実〉を露顕させるのである。さて、それは〈真実〉ではあるのであるが、それが国家の暴力、事例では官僚の暴力に利用される場合には、〈真実〉は正しさを超えてしまっているのである。正しくない、ということではなく、この「超えてしまう」ことで正義の絶対化によって他の正しさを無効化してしまうということである。潜在する僅かな正しさは、場合によっては不正と捉えられてしまうことにもなる、ということである。「メディア」は象徴的に事件を取り上げることが仕事である。知らせうるべき事件にも序列があり、その序列化の末に僅かな正しさは隠蔽されていくのである。さて、政治家というのは公人ではあるが、商売的には個人名を看板にしているので、官僚という組織内での一公務員という商売をしているわけではない。だから、例えば、元首相の息子である県会議員が逮捕されるなどということになると、もう二度と政治家として商売できないということである。この場合は、列記とした犯罪であるからして、同情の余地はないのであるが、犯罪を犯したわけでもなく、公の利益にもそれほどなりそうもないことでもって、公人としてではない政治家の個人的なスキャンダルを垂れ流す「メディア」がある、のである。そこには国家権力の不正を暴露するという大儀はあるのではあるが、一方の国家権力に加担する正義などは〈真実〉としても、やはり最早正しさを超えてしまっている。まぁ、捉えるほうの市民も、面白半分で読んでしまうのではあろうし、大「メディア」が発行する週刊誌というのも、商品であってそれ自体は情報でもなんでもないわけであるから、単に買わずに立ち読みするくらいが上等だとは思うのだが、まぁ、俎上に挙げられた政治家はたまったものではないね。





心ざんばら [ちょっと哲学的]

うーん、2010サッカーW杯南ア大会決勝も盛り上がっているのであるが、第22回参議院議員議員通常選挙も終わって、民主党は44議席、野党は77議席と大敗であった。これで非改選と合わせて110議席と過半数に11議席足りないこととなる。にわかにツィられてるように、「みんなの党」と連立すれば丁度121議席で過半数となるのだが、消費税論議を又ぶり返すと、国民新党の3議席が離脱するので、危ういものである。とすれば、数年前の自公連立みたく公民連合ということになろうか。国民新党が離脱しても公民だけで125議席であるから安定政権となる。まぁ、参議院のためだけでそんな連立も成立するとは思えないのだけれど、まぁ、悲惨であったのはタレント候補たちであろうか。それでも比例区ではトップの有田芳生氏と2位の谷亮子氏は難なく当選してはいるが他の候補は軒並み名簿順位が下の方なのであえなく落選である。自民では三原じゅん子とかが当選してるけど、何かなぁー。まぁ、選挙前に騒いだほどにはタレント議員は輩出されなかったといえるようである。そういえば、例の前田雄吉さんなんかは、タレント候補たちよりも順位低いものだから、当然落選してしまったわけだね。まぁ、この人、元々は衆議院議員で民主党から出てたのだけれども、08年10月にマルチ業者から献金貰ってて、国会で擁護答弁をした疑いで、あっさり自身から離党していた人なのだけれど、今回の参院選で復党して出馬まではいいけど、どうせ名簿順位は低いよなぁー、と思っていたら案の定だったのだけど、復党できただけでも御の字なのである。まぁ、また頑張ってください。まぁ、最近のサイコの予想で当たったのはどこぞのタコではないけど、2010サッカーW杯南ア大会のスペイン優勝くらいのものか。熱い夏は終わった。更に暑い夏がやってくる。


「情況への発言」全集成(1(1962~1975))   吉本隆明

雑誌『試行』の巻頭を飾った名物的連載すべてを発表順に収録している。情況を捉えずして本質には迫れない、著者の覚悟がこめられた時代との格闘。情況は情況を捉える確かな目によって情況となる。混迷する現在に立ち向かう著者の真骨頂を伝える時代への証言の書。まず第1巻を読んで、論敵も絡めて書こうかとも思ったのだが、まぁ、例によって大雑把に書いてみる。吉本自身が本屋と直談判して雑誌『試行』を置いてもらうというような件があるのだが、えー、っとちょっとびっくりしたのだが、まさに思想の産地直送である。まぁどうだろう、60年安保後の当時というのは、八百屋でも直に野菜を売りにくる農家とかもいただろうから、今は珍しいというかそれをセールスポイントとしているのだけれど、当時は〈普通〉だったのかもしれない。それにつけてもそんな弱小雑誌相手に大手商業論壇が論戦を張ってくるというのも、単に弱いものいじめ的にも思えるのだが、それだけ吉本が戦後最大の日本の思想家であったということの証左であろうか。次々と論敵を駆逐して思想界のヘゲモニーを確立していく様子は、絓秀実吉本隆明の時代に詳しいので、それを紹介したときのこのブログを参照してもらうとして、まぁ、当時の大学教授というのが権威主義的であっただろう様はうかがい知れる。吉本は今でこそどこぞの大学の特任教授をやってはいるが、当時はそうした権威など〈自立〉にとって何の役にも立たないことを分かりすぎていたから、在野の思想家に留まっていたのだろうが、それこそが庶民の、下からの即時的な情況への応答となっていたのであろう。また、どことのしがらみなく自由に書けたということも、まさに〈自立〉の強みであったのだろう。ただ自由気ままというわけではない。書き言葉は、辛辣を超えた罵詈雑言な表現のときもあるのであるが、真に的を得ていて、それこそ普通なら大人げぶって無視を決め付けるところであろうが、売られた喧嘩を買って出て、みごとに勝ってしまうのだから、カッコ良すぎる。うーん、吉本の正しさというのは本当にカッコいいのである。まぁ、それにつけても当時は熱い時代であったのだ。

まぁ、どうだろう、今の論壇というのは、それこそネットというものがあって情報が溢れているのであるが真に正鵠な論議というものがなされていないような感である。まぁ、メディア、とくにテレビに出てくるような人というのは、単にタレントであって、総論ではなくて各論のそれも瑣末な部分で当たり障りなく論じたりしているように見えるので、それが全体的なものを補完するまでに至ってないように思えるのだ。そうした大メディアでないところで、的を得たものもあるのだけれど、そちらは歴史的であって現在進行的には過ぎ去ってしまっているようにも感じるし、中々情況との合致ということは難しい時代なのかもしれない。いわゆる属領化、脱属領化そして再属領化のサイクルが早すぎるので、1日過ぎてしまうともう忘れ去られてしまうということなのであろうか。

まぁ、取り敢えず日本の選挙制度も、一応チェック機能を果たしているといえるわけで、まだましな代表制であるとして、後は個々人の直接的な政治行動ということなのであろうが、まぁ、サイコの場合、取り敢えず試験に受かることだね[ふらふら] まだまだ時代は熱い。



お引越し [ちょっと哲学的]

ということで、正式なSo-netブロガーとなったサイコである。そう、今までは、ネットマイルというセコいポイントサイトで「ポイントがつく」と思って頑張って毎週書いていたのだが、どーも、ポイント獲得履歴を見てもポイント溜まってる様子がなくて、というかいきなり7月末で終了するから、過去に書いたもん消されたくなかったら、移れー、なぞと告知されたので、うーん、と考えて、というのはこんてんつ会員なのだけどソネットの一応IDは、持っているはずで、なのだけど完璧記憶(記録)が無い[がく~(落胆した顔)] のでいろいろとやってみたのだけれども、結局、新ID作って、というのが最短であったようだ。いらん試行錯誤のおかげで2時間かけてしまった[がく~(落胆した顔)] というか、こんなことしている暇があったら社労士の勉強せー、なんだけれどもね[ふらふら] またぞろ、「情況への発言」全集成(1(1962~1975))なんて、吉本隆明のを本とに借りてきて読んでいるところである。いやー、だから社労士の勉強は・・・・ うーん、何とかなるだろう[ふらふら] ということで、前にも書いた栗本慎一郎と対談本相対幻論を除けば、初めて吉本のものを、今頃になって読んでるのか、と思ったら、本棚の片隅にマス・イメージ論があるではないか。うーん、しかし見事に忘却していたということである。ということで、今頃になって読んでるわけでもない。けれども、この手の本に触手がのびるということは、サイコもイタイ人かもしれない。
ということで、来月は選挙である。先回、書き忘れたようなところも含めて、ちょっと考察してみよう。

マルチチュード  〈帝国〉時代の戦争と民主主義   アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

今回、参院選も近いということで、ここで出てくる代表制の問題を取り上げてみよう。まず結論から言ってしまうと、代表制は機能不全に陥ってしまっていて、今やそれに対する異議申し立ては頻発しているということである。直接政治に介入するわけではないが、兎に角、今の自身の現状を訴えんがための抗議活動などの直接行動を起こす、ということである。前にも書いたのだが、貴族制(少数者による統治)、君主制(1人乃至2人による統治)そして民主制(多数による統治)という政治形態があって、民主制をもう一歩進めた絶対的民主主義(スピノザ)がマルチチュードによる全員の統治となる。しかしながら、この全員による民主政治という普遍は、実のところ民主政治が唱えられたにもかかわらず一度も実現されない理想に留まっているのである。いわんや、破綻してしまった社会主義的民主主義においても、形態としては代表制であったわけであり、その後には全体主義やファシズムといった悪しき遺産を残しているとネグリ等は言う。ネグリ等がいう「全員による統治」は、ややもすると全体主義やファシズムに親和性を持つ概念と思えてしまうのであるが、そうした論考を差し挟みながら極力言葉は選んでいるので、全体主義やファシズムとはなり得ない。しかしながら、ルソーの一般意志そのものが代表制であるとして、全員の意志に結びついているとともに切り離されている、離接的綜合のメカニズムとしている点は、仮に強度が違えば、例えば代表議員が私欲に走るか公益に走るかの傾きで何かが決定される余地は十分あるのではと思うので、的確な説明になっていないと思う。〈共〉性の対概念的なオルタナティブにあって、やっと危うく定義されはするのであるが、このスイッチが入ったり切れたりできる詭弁のような(離接的綜合自体はドゥルーズ&ガタリの)概念は、ルソーのそれこそ意志を裏切るのに容易なメカニズムであることも表出している。そして、煎じ詰めれば、代表とは誰の代表なのかということである。現在の情況から考えると、マルチチュードを代表しているとも言い切れない。有体にいってしまえば、近代的に「党」を代表しているのではないだろうか。そして、何かを決するということは、呆然とした意志を提示するに留まることではなく、マルチチュードの最大公約数の意志で(それが正しいとか悪いとかではなく)決するということではないだろうか。〈共〉性というのを、例の花田清輝のインパーソナルという、経済上の利益を度外視した機能的な人間関係、協働性に直すと日本的には分かりやすいのかもしれない。そして、選挙である。この本でも言ってることであるが、例えば最悪の2候補がいるとして、まだましな1候補に投票するしか選択の余地はなく、その候補が代表として6年、任期を勤めるというのが代表制の欠陥であるわけである。まぁ、その最低の代表が最低、〈共〉を生産しあるいはインパーソナルな活動をしてくれればいいのだが、それがなされない時には罷免という場合もありうるかもしれないけれども、最終的にはその代表に多くの裁量を任せるしかない。

まぁ、兎も角、マルチチュードによる直接的な生政治としての民主主義への野望は、やはりイバラの道ではあるのだけれど、信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!





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愛のサンカ [ちょっと哲学的]


マルチチュード(下)  〈帝国〉時代の戦争と民主主義  アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

さて、前回現在の〈帝国〉時代の戦争について概略したわけだが、〈帝国〉においては、戦争というほどに国家対国家といった構図ではなくなっている、というかそれは互いに壊滅的な損害に繋がるため、そもそも全面戦争は、まず出来ないわけである。しかもある一部も含めて、核による報復戦争などとなれば人類滅亡である。だから、あくまで〈内戦〉〈内紛〉として起こるため、軍事力ではなく単に有形力の行使としての警察力でもって排除乃至鎮圧されるのである。さて、そうした警察力の行使から逃れるため、まさにアンダーグラウンドでもって暗躍するのがマルチチュードであろうか? ネグリ等は案外これに関しては批判的である。例えば、イスラエルやモスクワやイラクで時々起こる自爆テロなどは、まさに生権力に対して〈生〉を賭して抗議する、あまりにも超越的な抗議行動である。生きるために死ぬ、という矛盾を孕んだ〈共〉性のための示威活動とは、不可分的に宗教という〈共〉性にあってそれこそ原理主義的な行動として隠蔽されてしまう。破壊そのものが非生産的であるばかりでなく、〈私〉と〈共〉を結ぶ線は超越的に保存されながらも、現実に〈生政治〉的な意味では死滅してしまうわけだからである。この破滅を救う手段として、ネグリ等は、世界各地で展開され/た、種々の運動を紹介している。アメリカにおけるブラックパンサー党による黒人解放闘争、イタリアにおける反グローバリゼーション運動であった「白いツナギ」運動、メキシコにおけるサパティスタ民族解放軍のネットワーク状なゲリラ闘争、そして1999年にシアトルで行われたWTO閣僚会議に対する抗議行動などなど。

 新グローバル秩序はまだ一度も三部会の集まりを開いていないし、さまざまな身分からなる全地球の住民に陳述書を提出するよう求めてもいない。だがシアトルを皮切りに、グローバル化に反対する人びとはグローバル機関のサミット会議をいわば即興のグローバル三部会へと変容させ、求められずとも自主的に陳述書を提出しているのだ。〈マルチチュード(下)P164〉

三部会とは、ルイ16世の時代、フランス革命前夜に決裂したものをアナロジーとしている。ルイ16世の求めに応じて4万を超える陳述書〈カイエ・ド・ドレアンス〉が提出されるのだが、この不満と三部会の議会形式に対する不満が爆発して、そのままフランス革命へと進展していくのである。ネグリ等は、この〈即興のグローバル三部会〉の後にマルチチュードによる革命を暗示していると言えよう。
かくして、マルチチュードの闘争は全世界的に止揚するのであろか。このまま〈帝国〉は生権力を行使しきれずに崩壊するのであろうか。最近の一例から、ギリシャの経済危機であるが、大規模なゼネストは行われたのではあるが、それだけである。銀行に火炎瓶が投げ込まれ3人が死亡などとは、先述した自爆テロよりも酷い。こうしたマルチチュードの一部過激派による行動は、〈帝国〉の生権力に補完的な作用を及ぼす。警察力の行使に大儀を与えてしまうのである。しかしながら、死者が出たから酷いとサイコは書いたのだが、死者が直接的には出ていない先述のシアトルWTO閣僚会議反対デモでも一部の参加者による破壊行動があり、そのメディアを通じての世界発信に対してはネグリ等はやや肯定的であったりする。多少の派手さは必要としているのだ。まぁ、いずれにせよ、正統的にそうした直接的非生産性行動せずに済ますとしても、未だ世界的な止揚にまでは至っていないようである。まだまだ陳述書は提出され続けなければならないということであろう。
さて、そうした陳述書の提出行動においての戦略とはいかなるものか。ネットワーク状の生権力に対しては、ネットワーク状の抗議行動ということなのだが、ネグリ等は出エジプト記を引いて「逃走せよ。だが逃げながら武器を取れ!」としている。ギリシャ、アテネでも仕事がなく、仕事を求めて国外に流出する者たちもいることであろう。これは、ポリス〈都市〉においてポリス〈警察〉の弾圧から逃れるためポリスからエクソダスする、というふうにも言える。その時、逃走する背後から敵が襲ってくるため、いかんせん武器を携えて逃げる、ということである。はて、その武器とは。間違っても火炎瓶でないことだけは確かである。例えば、先述した「白いツナギ」運動などは、トラックにサウンドマシーンを搭載して、イタリア各地で即興的な野外ライブ(レイブパーティ)を行うなどしていたのだが、そうした反グローバリゼーションデモを取り締まる警察当局との対立が目立ってくる。そこで「白いツナギ」運動のメンバーたちは、警察の排除部隊をほとんど真似た格好で、トラックを装甲車に見立てて対峙するようになるのである。どちらがポリスか、わからなくする戦略である。いわば生権力が正当的に行使する暴力をパロディー化することで、暴力排除の非正当性、非妥当性を訴えるわけである。このイロニーの表出こそがマルチチュードの武器ということである。
さて、この本の結論というのが〈真に政治的に愛の行動〉ということである。少しロマン主義的なところもあり、この結論はちょっとずっこけたのであるが、監修者である水嶋氏の解説に、「愛を政治的行動として再建しようとするネグリ&ハートの言葉は、カップルや家族といった私的領域に愛を閉じ込めたり、あるいは愛を欺瞞的に振りかざすことによって社会的敵対性をかき消そうとしたりする(それ自体が政治的な)身振りになれた今日の多くの人びとに、冷笑を持って迎えられるだけかもしれない。(P274)」と断った上で、スピノザにとっての愛が、「他者との出会いを通じて力能と喜びを増大させていくような限界なきネットワークを指示する」政治的概念であるとしている。あくまで多数多様性に開かれたマルチチュードのプロジェクトとは、愛のプロジェクト愛の実験としている。愛の酸化ではなく愛の参加である。愛の純化ではなく、愛の〈潤化〉なのである。うーん、やっぱり「白いツナギ」は、日本ではダウンタウンウギヴギバンドが元祖だよなぁ。



安田砦攻防戦 [ちょっと哲学的]

マルチチュード(上)  〈帝国〉時代の戦争と民主主義   アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

例の〈帝国〉の続編である。書いてあることは、〈帝国〉を引き継ぐわけだから然程変わらないのだけども、書かれた時期は、9・11からイラク戦争の間である。まず、上巻は、それこそ戦争の話からで、かなりマニアックに現在のアメリカ兵士の装備などから「身体なき戦争」ということを言っていたりする。実際、誤爆などもままあったあのピンポイント攻撃などは、バーチャルな感覚で敵を攻撃するわけで、第二次大戦のように敵同士が相手を確認しながら攻撃しあうという戦争の形態自体が変質してきているのである。そして前線の兵士は、昔も今もというように思い描きがちなのだが、通信手段の躍進的な進化によって、まさに「ネットワーク状」な連携をとりながら攻撃、防御を行うわけである。昔ならば、上官の上からの指令のみで一個中隊が、どこそこ方面へ展開されるというようなのが戦争の形態であったのが、まず情報をあらゆる角度から収集して、その情報に基づいてある一班のハイテク武装した一兵士が双方向的に指令部とコミュニケートしながら展開されるというのである。そしてピンポイント爆撃で敵の要所を壊滅しながら前進していくというのが、現代のアメリカ式戦争、〈帝国〉時代の戦争なのである。この形態全般は何もアフガンやイラクに限定されたものではなく、例えば、アメリカ国内においての対テロ、対マフィア的な警察行動にも合致するというのである。戦争行為というものが大きな警察による警察力の行使に変質しているという点も、以前の戦争とは異質である。これが、いわゆるアメリカの単独行動主義、世界の警察としての大義となっているわけである。そして、「戦争」といってはいるが、〈帝国〉にあってはそれは全て「内戦」としてしか起こりえない。この「内戦」というのもかなり広義のものであるのだけれども、実際上の内紛地域から各地で起こるテロなども「内戦」なのである。実際的にその鎮圧なり調停なりに有形力が行使される場合には、軍事力ではなく警察力である、というわけである。
さて、概ねは下巻の書評のときに総括するとして、ここで出てくるキーワードをごく簡単に書いておこう。まず、〈共〉性という概念。共通の、共同の、共有の、という意味合いを全て包含するものとして〈共〉性という風に訳されている。これは〈公〉〈私〉という概念のどちらをも採らず、どちらにも存在するということで対概念的なオルタナティブとして使われるわけである。そして、〈肉〉。身体ではなく、まぁ、現代的なアナロジーで言えば、プロティン飲んで筋肉を作るというようなのが合致すると思うのだが、マルチチュードとなっていく過程として、生成、精製されるのがこの〈肉〉である。マルチチュードの前段階というような生成過程である。そして多分これは誰も指摘しないようなことを、と思われるかもしれないのだけれど、マルクスの方法論を書いておこう。
1 歴史的傾向 - 産業労働から非物質的労働へ、フォーディズムからポストフォーディズムへ、そう近代からポストモダンへ
2 現実的抽象化
3 敵対性
4 主体性の構成
反スタであろうとなかろうと、広義のマルクス者らは、多かれ少なかれ、この方法論に基づいた思考というものが存在するのであろう。「吉本隆明の時代」のその吉本もさることながら、絓秀実が言う〈主体性〉とは、ネグリらの言う〈主体性〉と同義である。でなければ、革命的知識人の誕生という言辞は出てこないはずである。誕生=生産、そして吉本隆明の再生産、具体的、物理的なよしもとばななと、思想の再生産としての絓を見て取るとき、マクドゥーナルズとマルクス者は、現代にも脈々と再生産されている。
さて、話は69.01.18に遡る。朝5時45分、「こちらは時計台防衛司令部。ただいま、機動隊は全部、出動しました。すべての学友諸君は戦闘配置についてください。われわれのたたかいは歴史的、人民的たたかいである」。安田講堂の「時計台放送局」叫ぶ。安田砦攻防戦の幕が開いた。6時、日共(は~、今気づいたけどこれ〈ひきょう〉と読むんだ)宮顕指導部からのお達しで、あかつき行動隊も含めた民青系のゲバルト部隊は、角材を焼き、鉄パイプを捨てる儀式を行った後、赤門前をきれいに掃き清めて、全員逃走。7時、8個機動隊8500名、東大到着。医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始。機動隊は、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し、安田講堂を包囲。午後1時頃、安田講堂への本格的な封鎖解除が開始されるが、強固なバリケードと、上部階からの火炎瓶やホームベース大の敷石の投石、ガソリンや硫酸などの劇物の散布など、機動隊員の命を奪うこともいとわない攻撃を続ける全共闘学生は予想以上に抵抗。この攻防戦に篭城する全共闘学生は、諸セクト(革マル派はすでに撤退)も合わせて500名。「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ことを念頭に置き封鎖解除を進めたために、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は苦戦を強いられる。午後5時40分、警備本部は作業中止を命令。やむなく一旦撤収、放水の続行を残し作戦を翌日に持ち越す。
01.19 午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開。2日目も全共闘学生は激しく抵抗。12時30分、2階まで侵入。午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し、午後5時46分、屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。午後5時 50分、「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」。東大全学学生解放戦線の今井澄のこのメッセージにより安田講堂攻防戦は幕を下ろした。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。この2日間の闘いで、多数の負傷者、逮捕者が出るが、全共闘各派の767名の逮捕者のうち、東大生はわずか38名であった。攻防戦前、篭城することはすなわち逮捕を覚悟することであり、闘争の継続のため東大全共闘は篭城組と離脱組に分けられていた。それにしても、68.06に全学化した最盛期からの半年あまりで東大全共闘はかなり弱体化したことは否めない。それに漬け込むような形で各セクトが70年安保闘争の足がかりとして介入し、またそれにある意味頼らざるを得ない状況へと変質し、一般学生が学内への機動隊動員を許すまでに孤立化していた。最後は、いかに華々しく散るか、だけであった。これで、東大闘争は終息するのであるが、この闘争モデルは69年に全国的に各大学に拡散していくのであった。造反有利などのマオイズムやマルクス主義などの思想的背景があるわけではなく、スタイルとしての思想が表層的に模倣されていくばかりではあったのだが、東大闘争の異質性からして闘争の根拠や根底が真似されるはずもなかったわけである。
反帝国主義の時代の闘争は、学生運動に象徴されるような形で脈々と現在も市民運動へと繋がっているのであるが、反〈帝国〉時代の闘争は、いかにして展開されなければならないのか。次回、マルチチュード(下)で総括してみたい。



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あかつきには [ちょっと哲学的]

21日、ようやく金星探査機「あかつき」を搭載したくH2A17号機は無事打ち上げられ、搭載された小型衛星もそれぞれ地球周回軌道や金星へ向かう軌道に投入されたようだ。そのひとつ、鹿児島大学が開発に携わった小型衛星「KSAT」、愛称ハヤトも高度300kmの地球周回軌道に乗り、大気水蒸気観測を始めている。自分たちが携わったものが完成したあかつきには、やはり歓声が上がるものだ。
さて、そうした夢や希望の象徴ともなるスターたちであるが、またまた42年前のあの頃に戻って、どこに陥穽があったのか検討してみよう。


1968(上) 若者たちの叛乱とその背景  小熊英二

レボリューションとは、革命のことであるのだが、星の逆行をも意味する。地球から天井の星の軌跡を見たときに、半回転して戻っていくアナロジーとして、古きよき法に戻ることを意味していた。中国においても、天命が動くという易姓革命という思想がある。いずれにせよ、古代も、近世もそして現代においても、天や星に自らの未来を託そうとするのが、あまりにも人間的な普遍(不変)なのであろう。
その昔、暁とともにさっそうと現れては敵対するセクトを一掃していた行動隊があった。人呼んであかつき行動隊。そのリーダーが宮崎学である。1968年当時、日共の傘下にあった民青は日共の指導の下、穏健な民主改革でもって大学改革を当局側に請願するというような活動であったのだが、他のセクトは暴力革命を標榜し、そうした民青の「日和見」的な活動をまさに暴力的に排除することが多々あった。各大学で全共闘が沸騰する前、いや67.10.08 「第一次羽田事件」以来の激動の7か月にあって、三派全学連が主流をなす状況の前、国公立大学では民青はまだ主導権を温存してはいた。しかし、他のセクト、とくに中核派の目覚しい躍進の中で、大学自治会、さらに全学連での重要ポストを次第に奪われていくのである。他セクトは、街頭闘争で機動隊との接触の中、防御と攻撃のために武装するようになり、それは日々過激化していた。そうしたセクトは主導権争いのために、しばしば敵対し、それにゲバルトを行使するようになっていたのである。そうした中にあって、民青は他セクトの暴力に耐え忍んでいたのだが、敵対セクトの暴力には正当防衛で立ち向かわなければならないとして、ついに武装集団を結成したのである。それがあかつき行動隊である。
11.04 加藤教授が東大総長代行に就任、東大全共闘を主な交渉相手と認め丁々場の団交に入る。そして、その丁々場の団交が決裂した11.12 安田講堂内で東大全共闘の総決起集会後、総合図書館前で待ちかまえていたあかつき行動隊と内ゲバ。宮崎のみごとな指揮のもとに、全共闘諸派連合武装部隊は総崩れとなった。民青VS全共闘で、武力においても全共闘が劣勢になった決定的瞬間である。11.14 法学生大会、「全学封鎖反対決議」が通り(賛成371、反対126)、全共闘側にとって不利な状況となる。この11月において、民主化闘争的な要求貫徹はすでに後退してしまい、東大一校だけの改革には納まらず、全大学の共闘へと拡散する反体制闘争を東大全共闘は指向し始める。11.22 その意向は、日大・東大闘争勝利全国総決起集会という形で現れる。ここに、日大全共闘と東大全共闘は合流する。しかしながら、この日大全共闘も10.01 の敗北によりノンポリ学生の支持を集めていたわけではなく、各セクトの出張メンバーのごときものであった。しかも日大生だけによらず各セクトの指示でまさに他大学から出張させられた寄合所帯のごとき日大全共闘であった。このときも、民青系は大会阻止のために7千名を動員していたが、東大学外には4千人の機動隊が待機、いざ内ゲバとなれば、雪崩を打って機動隊に排除されるのは目に見えていた。テレビメディアも集合している事情で、日共中央からも共産党員が内ゲバなどの映像を撮られることを極力回避したいということで暴力沙汰厳禁を指示されており、なすすべ無く教育学部前で一夜を過ごした。このような流れで東大全共闘は息を吹き返したと見るのは間違っている。一般の学生からは最早見捨てられており、各セクトの介入により諸派の勢力争いに引きづられており、まさに具体的な着地点を見定められなくなってしまっていた。反帝国主義打倒、反スターリニズム打倒を掲げて最早大学当局を相手にした闘争の域を超えてしまっていた。漠然とした闘争のための闘争、最早勝つためではなく、いかに格好良く散るか、だけが闘争を終結させる方法に自らを陥れてしまったわけである。ノンセクト・ラディカルの限界。東大全共闘議長の山本義隆はテンデバラバラの各セクトを取り纏めるのに必死であった。一方、各セクトは東大全共闘と心中する気はさらさらなく、東大に送り込まれたメンバーはほとんど新参の党員ばかりで碌に機動隊と対峙したこともない者も多かったということだ。要するに、幹部が逮捕されてしまうことはセクトの弱体化に繋がり、それを避けて、しかも70年安保の拠点としての東大に勢力を拡大することを巧妙に意図していたわけである。12月の東大構内は、そうした各セクト間の内ゲバの日々であった。民青系と全共闘の内ゲバも絶えなかったのであるが、例えば、12.06 社青同解放派と革マル派との間で流血の内ゲバが起こっている。このように各セクト間でも内ゲバは行われたのだが、例えば、その最中に民青系が顔を出そうものなら、今まで敵対していた両セクトがなぜか連帯して、民青系の武装集団と今度は内ゲバを行うという、異様な戦争ごっこであった。大学当局にとっても12月は、入試試験を開催する目途を立てなければいけないリミットであった。卒業生たちにとっても、このまま学内封鎖が続くことは、卒業できない=就職浪人というリミットであった。寝トライキ4年生たちはそうした思惑で、有志グループあるいは民青系による学生会議でスト解除を決議し、年末までにバリケード解除に漕ぎ着ける学部もでてきた。越年した学部は、教育学部、農学部、工学部、薬学部、文学部、理学部だけだった。12.29 入試試験中止が決定される。ある意味、大学解体を謳っていた全共闘にとっては、ひとつの勝利だったのだろうが、最早それどころではなかったのだ。69.01.04 加藤東大総長代行は非常事態宣言を発動。 01.09 午後8時16分、加藤総長代行は、「第一に経済学部で危険な状態にある学生の救出、第二に教育学部で包囲されている学生の救出、およびそれに伴う必要な措置をとるため、警察力の出動を要請」した。この「経済学部で危険な状態にある学生」を代表していたのが福田内閣時に官房長官であった町村氏である。01.10 秩父宮ラグビー場で7学部代表団と大学側の集会。民青系が主導し、代表団と東大当局の間で「確認書」が取り交わされた。この時点で全共闘は完全に孤立する。01.15 東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会。山本義隆東大全共闘議長に逮捕状が出る。01.16 加藤東大総長代行が警視庁に出頭、機動隊動員を要請する。01.18 安田講堂攻防戦、始まる。

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1968 [ちょっと哲学的]

1968(上) 若者たちの叛乱とその背景  小熊英二

今回は、日大闘争と東大闘争を搔い摘んで紹介する。1960年代当時、日本大学は最右翼的な大学で、学生は何から何まで管理されている状態であった。しばしばそうした体制に対しての不満や批判も噴出するのであるが、大学側にべったりの体育会系のサークル、部活を除いて、学内で抗議行動(運動ではない)でもしようものなら即刻退学処分となるほど、学生は大学当局から弾圧されていた。そうした中、68.01.26 日大理工学部の小野竹之助教授が裏口入学の斡旋にからむ不正入学金5千万円の不正所得及び脱税事件が発覚、5月までに東京国税局は日大を一斉監査した結果、22億円の使途不明金があることを公表する。それ以後、この使途不明金と学内検問体制などを弾劾する討論会を経済学部と短大経済学部の学生会が度々開催するも、その度に体育会系「右翼」に恫喝され暴力により排除される。しかし、05.23 同じく学生会により経済学部地下食堂ホールで抗議集会を開催した折は一般学生で満杯となり、動員された体育会系「右翼」約100名の暴力排除行為も、一般学生からの暴力反対の罵声に躊躇し暴行を中止するほどであった。この集会に更に加わろうとする学生が地下への階段へ殺到したため、大学当局はこの階段のシャッターを封鎖し、その後、ホールにいた全員を学外へ排除した。しかし、排除された学生約2000名は抗議のデモ隊列を組み、白山通りから錦糸公園まで日大200メートルデモを行う。次の日の抗議集会は体育会系「右翼」に阻止されるが、学部校舎前での集会、200メートルデモを、体育会系「右翼」による妨害を受けながらも行った。必死の大学当局による鎮圧行為であった。05.25 この一連の騒動に対する学生処分として、秋田明大以下13名(経済学部学生会執行部および有志活動家)処分発表するも、集会動員数は約5000名と膨れ上がった。そして、05.27 全学部の合同集会によって日大全共闘が結成され、秋田明大が議長に選出された。日大闘争は、当初、大学当局の圧制を排除し民主化を要求する「学内改良闘争」であった。大学当局に、全理事長の退陣・経理の公開・集会の自由承認など5つのスローガンを掲げて、再三の大衆団交を要求するが、古田日大会頭はことごとく無視、ついに 06.11 日大全共闘は、学内をバリケード封鎖、その後も体育会系「右翼」の襲撃などの妨害を受けながら、団交要求をするが、一旦整ったかと思えた団交を一方的に無期延期にしたりと古田体制はワンマンであった。9月に入ってもそうした硬直的な態度であったが 09.30 ようやく団交にこぎつけ、ほぼ日大全共闘の要求に沿った内容で古田体制側と合意した。日大闘争は、これで勝利したかに思えた。しかし、時の首相佐藤が内閣懇談で「日大全共闘の行為は、集団暴力である」と発言。大学側は合意を反故にし、その後、機動隊出動を要請しバリケードを撤去してしまう。日大闘争は、これで終息気味となるのだが、東大闘争と急接近することにより当初の「民主化闘争」から「反帝・反スタ」的な反体制闘争の色彩を強めていくこととなる。
一方、東大闘争は、医学部で、登録医制やインターン制などの実質的無報酬研修に対しての反発から端を発している。医学部では、依然、近代的封建的な大教授の門弟下での徒弟として卒業し、研修という名の無報酬労働に5~10年奉仕し、その後は晴れて系列化の病院等に配属という形式であった。医者の子女など経済的に恵まれた環境にある者ならいざしらず、東大医学部には、20代を無収入で生活できない者も多々あった。そうした医者の卵たちは、当然アルバイトで生計を立てることになるのだが、当時のアルバイト収入は一般サラリーマンよりもよかったということで、一概に経済的理由ばかりから闘争の火種が点いたともいえない。また、64慶大闘争、65早大闘争、66中大闘争が学費値上げに対する反発で、「学内改良闘争」であった。そして、これらの闘争を勝ち得たのは、66中大闘争と66横浜国大闘争くらいなもので、ほかの闘争はいわゆる落としどころ、大学側とのある程度の合意に達することなく、たちがれていく。そのそれぞれの闘争には、それぞれの特色があり、その過程においても様々な特色があったのであるが、ほぼ自然発生的に全学化し、64慶大闘争で採用された「バリケード封鎖」という戦術を使い、セクトが自派の勢力を獲得するために介入し、最後は一般学生に愛想をつかされて孤立化する、といったところが各全共闘運動の流れのようである。ただ、東大闘争が、その後に全国的に模倣されるのではあるが、他の闘争と異質であったのは、院生や助手が闘争の中心であったこと、自治会の大分を占めていた民青とは別個にいわゆるノンセクト・ラディカルによる全共闘(全闘連)が取り敢えず主導したこと、がまず揚げられる。東大闘争の流れを参照してもらうと、医学部全闘委が卒業式阻止など、68.02.19 上田内科春見医局長監禁暴行事件、の処分に対する実力行使を展開し、06.15に安田講堂を再占拠するまでは、単に医学部全闘委の闘争であったともいえる。しかし、これの排除に大河内東大総長は機動隊を導引、06.17 大学の自治が破られたとして、これを聞きつけた学生や院生が自然発生的に講堂前に集まり、抗議集会を行う。この約300名も、講堂内に事務所をあてがわれていた文部官僚が大河内総長に詰め寄り、「あの学生たちを講堂から追い出せ」と指示、またも機動隊により排除される。この事態が東大生、院生の感情にさらに火を注ぐこととなる。06.18 東大大学院生が東大全学闘争連合(全闘連)を結成し、代表に理系大学院生の山本義隆が就任した。昼過ぎには3000名規模の集会とデモが行われ、翌日には各学部で学生大会が開かれ、続々とストライキが決定されていった。その後もすたもんだしながら、07.05に代表山本義隆の東大全学共闘会議(東大全共闘)が結成される。初期の東大全共闘の要求は、1.医学部不当処分白紙撤回! 2.機動隊導入を自己批判し、声明を撤回せよ! 3.青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ! 4.文学部不当処分撤回! 5.一切の捜査協力(証人、証拠等)を拒否せよ! 6.1.29日よりの全学の事態に関する一切の処分を行うな! 7.以上を大衆団交の場において文書をもって確約し、責任者は責任をとって辞職せよ! の7要求で、東大闘争以前の各大学で闘われた「学内改良闘争」とほぼ同列のものであった。方や民青系も「学内改良闘争」的な4要求を東大当局に示していたのであるが、当初東大当局は、全共闘を非公式の団体として交渉の相手として見ておらず、民青系の自治会の4要求に沿う形で学生評議会の設置を標榜していた。全共闘サイドは、この学生評議会なるものは東大当局の御用機関化するものとして反対していた。東大の教員や助手には日共の党員も少なからずおり、民青系はそれなりに力を持っていたのだが、67.10.08 「第一次羽田事件」以来の激動の7か月にあって、三派全学連が学生側の主流をなす状況にあって、東大学内においても民青系の求心力は急落していた。68.08.10 東大当局は、緊急評議会を開き、「8.10告示」大学側最終案をまとめ一方的な告示を出した。7月の東大全共闘発足から全学のスト突入は継続されていたが、08.28 小林新医学部長の団交拒否を理由に全共闘は医学部本館を封鎖した。このころから東大全共闘と民青系との抗争が激化していくことになる。そうした抗争も交えながら、10.12 法学部もバリケードを築き、東大全10学部が無期限ストに突入することとなった。東大が機能麻痺の状況となり当局サイドも学内紛争を終息出来ない引責として、11.01 大河内東大総長が辞任、10学部長も全員辞任した。11.04 加藤教授が総長代行に就任、丁々場の団交に入る。
次回、安田講堂攻防戦に至るまでの経緯を熱く騙りたい。



ミュルテプリシテ [ちょっと哲学的]

〈帝国〉  グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性  アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート


文明論之概略福澤諭吉がタネ本としてギゾーヨーロッパ文明史を使っているのであるが、この文明開化の俊英が引用しないようなところを強調的に引用しているのが〈帝国〉である。まぁ、「概略」との比較をするまでもなく、〈帝国〉はポストコロニアルであり、「概略」はアンチコロニアルである、という視点であるから、それこそ欧州に限らず世界的なここ300年くらいの歴史を概略すれば、世界分割の後とは何か、という視点なのである。アンドガタリでも述べたように、ポスコロ世界のヘゲモニーを確立した新たなる主権の頂点にあるのがアメリカ合衆国なのだが、ローマ帝国とのアナロジーで語られながらも、資本主義社会における民主制という視点からマルチチュードという概念を対置するのである。資本主義社会の、特にアメリカは混合政体であるとして、ポリュビオスのローマ帝国モデルを下敷きに、貴族制、君主制(フーコーのいう生−政治を含む)そして民主制の政治形態がハイブリッドに混ざり合っていて、これがモンテスキューの三権分立のように互いにけん制しあっているということを言いたいようである。このモンテスキューを踏襲したヘーゲルを極力排除して、そしてカントの図式化に堕しないために、マキァヴェッリを踏襲したスピノザを引用してくると、このマルチチュードという答えが出てくるしかないのであるが、この単体的なモナドに多数多様性を付加しなければ現在的な〈情況〉(シチュアシオン)が見えてこないために所謂ポストモダン思想(主にドゥルーズとガタリ、その影でリオタール)を横領しているのである。ポストモダンで変奏された唯物史観からヘーゲルを限りなく排除し、まだ有効だろうと思われるような共産主義理論を根気よくキルティングした闘争の実践のための心得書き、といったところだろうか。これは悪気でいっているのではなく、マルチチュードたる、そしてプレカリアート、さらにルンペン・プロレタリアートであるサイコも何かしらのことがあれば、闘士となる場合もあるだろうけれども、すぐ日和ってしまう小市民的存在なので、すぐさま実践という風にはならないからである。こうした実践理論の〈構築〉こそがマルチチュードの労働、ということだ。まさにカルチュラル・スタディーズの元祖のような感じである。さらに訳書たる〈帝国〉の〈 〉こそは吉本隆明シンパの〈自立〉マークにほかならない。今なお革命的であれ!という証である。
さて、帝国主義から〈帝国〉への移行、という唯物史観的な見方ではあるのだが、アメリカ合衆国自体が〈帝国〉ということではない。アメリカ合衆国は、あくまで〈帝国〉の内部でヘゲモニーを掌握したピラミッドの頂点にある主権、ということである。アメリカ合衆国は実態的な主権であるのだが、〈帝国〉自体は場所というものを持たない。〈非−場〉としてあるのである。フランシス・フクヤマが歴史の終焉をいうとき、「単一の統一された敵を名指すことがますます困難」となった情況を指し示している。近代的主権は、外部を持つことによって、確たる自己、すなわち内部を同定し、外部の内部化、すなわち植民地化が可能であったのだが、新しい主権、〈帝国〉においては、内部化する外部は存在しない。敵対する外部など無いわけである。しかし、それは反転する。

 ・・・・世界的規模の戦争機械がまるでSFのように次第に強力に構成され、ファシスト的な死よりもおそらくもっと恐ろしい平和を自己の目標に定め、すさまじい局地戦を自分自身の部分として維持し、誘発し、他の国でも他の体制でもない新しいタイプの敵として「任意の敵」に狙いを定め、一度は裏をかかれても二度目には立ち直る反ゲリラ要員を特訓しているのだ・・・・しかしながら、こうした「世界」的ないし「国家」的戦争機械の諸条件、すなわち固定資本〈資源と物資〉と人的可変資本こそが、変異的、少数者的、民衆的、革命的なさまざまな機械を産み出す予想外の反撃や、意想外な発意の可能性をたえず再創造するのである。千のプラトーP477

「いたるところにマイナーで捕まえにくい敵たちが存在しているように」みえるため、「近代性の危機の終焉は、汎−危機(オムニ−クライシス)を生み出したのだ。」(〈帝国〉P246) 外敵は存在せず、内部に潜伏するテロリストという「任意の敵」に標準をあわせている。「世界」的ないし「国家」的戦争機械は、局所に存在する「恐怖」を利用しているともいえる。外部に敵はいないが、というよりも外が存在しないのであるから、内部のいたるとところに潜在的恐怖が歴史の終焉によって見え隠れしている、ということである。歴史は終焉してしまったのであるから、ポスト〈帝国〉という史観は不適切ではあるのだが、そうした内部的恐怖によるある意味恐怖政治によって、ピラミッドの底辺にいるマルチチュードはまさに管理されている。しかし、ソ連邦が崩壊するごとく、その恐怖政治(〈帝国〉権力の統合性と連続性が極端に高まる専制政治)もマルチチュードを暴力的に管理する、まさにバイオ−ポリティクスの行使のあらゆる場面を通して、逆に免疫が低下するがために罹患するがごとく、決壊しはじめる。この二律背反の共時的作動によって、〈帝国〉は体制を維持せんがためにマルチチュードに及ぼす自らの権力によって、自らも弱体化させるというのである。マルチチュードからの反動ということではなく、及ぼす力によって疲弊する(本では腐敗といっている)わけである。そして〈帝国〉を通過した後に、マルチチュードのリゾーム的(リゾートじゃない)世界が現れるのである。まぁ、それにしてもこの〈帝国〉という本はまさにリゾームのラタトゥイユである。中に引用した、千のプラトーのここをネグリ等は注釈として付すのであるが、一種のパロディーという視点は棚上げしておこう。ミルプラを限り無く現状へ当てはめてみた理論というところである。もともと〈帝国〉には場所が無い、いや非ず(在らず)なのだから存在論も通じない。非−場というプラトンがいう「コーラ」の、まさにローマではないアメリカスとしての現実の〈非−場〉ということである。ソ連邦は崩壊したのであるが、〈帝国〉は果実が熟れ過ぎた終に解けるように崩れるヨウカイとなるのであろう。それこそはまさにマルチチュードが国家を超えた意味での主権となるときである。しかし、ヨウカイは死したことに気づかず、デス-ポリティクスとでも言うべき反動的恐怖を持続させるであろう。まさにマルチチュードはミュルテプリシテであるのだが、インターナショナルというマルクスの予言にも取り憑かれているからである。



世界の中心で・・・ [ちょっと哲学的]

沖縄・久米島から日本国家を読み解く   佐藤優


地政学は、現代では歴史学の一部となってしまったようであるが、近代においては、植民地開発あるいは軍事的侵攻等にとって戦略上重要な学問であったようだ。そうした意味からも、現代ではポストコロニアルの時代なのだが、この著もまさにポストコロニアリックである。まず、諸概念から、亜民族(ナロードノスチ)とは、人種・言語・文化が相対的に均質で、民族に先行する段階の形態をいう。佐藤が言うところでは、「国家を持つには至らないまとまった民族体」のことで、「私自身は、沖縄人という民族意識をもっているのだろうか? ロシアの民族学者ユーリー・ブロムレイのエトノス論に基づけば、この問題は簡単に解決することができる。沖縄人という自己意識は、民族(ロシア語のナーツィヤнация)に至る前段階の亜民族(ロシア語のナロードノスチнародность)であるということだ。亜民族意識は日本人というアイデンティティーに吸収されてしまう可能性もあれば、独自の民族に結晶することもある。結局、沖縄人は、完全な日本人であるか否か、沖縄人という民族であるか否かという問題意識を常に抱えざるを得ないのである。(「沖縄・久米島から日本国家を読み解く」P300)と言っている。こうした複合アイデンティティの逡巡の結果、佐藤は日本人として、というよりも国際的感覚を持つ者(コスモポリタン)となるのである。ここへの導きの糸は、仲原善忠という久米島に生まれた郷土史家の「久米島史話」(仲原善忠全集 第三巻 民族篇)によるところが多い。実際、「沖縄・久米島から日本国家を読み解く」では、「久米島史話」からの引用が多く用いられている。コスモポリタンへ至る道筋は、「久米島史話」には書いてあるはずもないのだが、仲原の生涯から佐藤が思い至るわけである。久米島の新垣の杜を世界の中心として見る。そこで、世界と歴史はどのように見えてくるのか。1400年代、久米島には親方(ひや)という共同体の指導者がいた。そこへ、琉球王朝成立で討伐を逃れてきたと思われる豪族が、島外から来て久米島を支配するようになる。この支配者を按司(アジ、アンジ)というが、この島外士族と島民は戦わずして支配下に入るのである。武力では徹底的に劣る島民に無益な争いをして犠牲者を出すことを回避したわけであるが、この按司と島民との交渉役が「堂のひや」という島内とってのエリートであった。1510年に琉球王朝の支配が及ぶまでは、久米島では按司に支配され、「堂のひや」は年貢の徴収役をして共同体を維持していた。しかし、琉球王朝の討伐により按司は、ついに最期と、わが子を「堂のひや」に託すのであるが、預かった後、「堂のひや」はその幼主の髪の毛を結うふりをして絞め殺してしまう。それで首里城に行き、前の按司の息子が病死したとして、自らをを按司にするよう嘆願して任命してもらう。嬉々として帰った「堂のひや」だったが、入城する際に落馬した折に、脇差が刺さって死んでしまう。確かに按司の子供を殺す必要はなかったかもしれない。残虐なところもあったが、按司は外から来て久米島の住人から年貢を取り立てるような部外者で、「堂のひや」たちも心から従っていたわけじゃない。按司とともに殉死する必要はないし付き合う必要もない。天命が離れたのだから。久米島や琉球には、この天命という易姓革命思想により共同体を機能させていた。共同体を治める者には徳がなければならず、その徳が失われれば、天命が離れた、ということになり新たに徳のある者、天命を受けた者により統治されることとなるのである。「堂のひや」についても天命を受けていたわけではなかった。それで落馬して死んでしまうのではあるが、佐藤、いや仲原は、「この堂のひやこそが久米島の英雄なんだ」と、英雄伝説としての「堂のひや」に久米島性を見るのである。そして琉球王朝時代前から続く祭政一致体制内の宗教的な部分として、ノロユタたちを束ねていた君南風(きみはえ、チンペー)という高級神女がいた。1500年、オヤケアカハチの乱において久米島の君南風が琉球王府軍に随行し、討伐が始まるまさにその前に、相手側(石垣島)のノロたちと対峙し、呪言を投げ交わすのである。呪言といっても、要は「王府軍の圧倒的力の前には勝ち目が無いので潔く降伏しろ」という情報を先駆けて、相手に知らしめる役目をしているのである。この神力によって、石垣のノロたちは霊感して退去するということであったようだ。この功績が認められ、聞得大君により33神女の列に加わり、高位に配されたようである。そして、1609年、薩摩による琉球侵攻により、久米島も薩摩藩と清への両属という体制に組み入れられる。それまでは自由貿易的な恩恵にも浴していたのであるが、江戸幕府の鎖国体制によって、海上貿易からの利益を得られなくなった。1853年、琉球に黒船が来航した際に、史実をつなぎ合わせてみると、ペリー一行は久米島に食料調達のために立ち寄っていたということである。1879年、琉球処分により沖縄県に組み入れられる。そして、1945年、太平洋戦争の終結へと流れていく。その沖縄戦において、久米島の当時の指導的立場にあった者は、「堂のひや」的に日本軍と米軍の間で中立を維持することとしていた。それによって「集団自決」は起こらなかったのであるが、パニックとなった前戦の日本軍は、住民20人を虐殺してしまう。日本軍の支離滅裂な状況に比して、久米島の土着エリートは、共同体維持の最善を尽くすのに冷静であったということである。「堂のひや」モデルを念頭においてコスモポリタンとなること。久米島の新垣の杜に最初に神々が降り立った、そこがコスモの中心である。





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