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あかつきには [ちょっと哲学的]

21日、ようやく金星探査機「あかつき」を搭載したくH2A17号機は無事打ち上げられ、搭載された小型衛星もそれぞれ地球周回軌道や金星へ向かう軌道に投入されたようだ。そのひとつ、鹿児島大学が開発に携わった小型衛星「KSAT」、愛称ハヤトも高度300kmの地球周回軌道に乗り、大気水蒸気観測を始めている。自分たちが携わったものが完成したあかつきには、やはり歓声が上がるものだ。
さて、そうした夢や希望の象徴ともなるスターたちであるが、またまた42年前のあの頃に戻って、どこに陥穽があったのか検討してみよう。


1968(上) 若者たちの叛乱とその背景  小熊英二

レボリューションとは、革命のことであるのだが、星の逆行をも意味する。地球から天井の星の軌跡を見たときに、半回転して戻っていくアナロジーとして、古きよき法に戻ることを意味していた。中国においても、天命が動くという易姓革命という思想がある。いずれにせよ、古代も、近世もそして現代においても、天や星に自らの未来を託そうとするのが、あまりにも人間的な普遍(不変)なのであろう。
その昔、暁とともにさっそうと現れては敵対するセクトを一掃していた行動隊があった。人呼んであかつき行動隊。そのリーダーが宮崎学である。1968年当時、日共の傘下にあった民青は日共の指導の下、穏健な民主改革でもって大学改革を当局側に請願するというような活動であったのだが、他のセクトは暴力革命を標榜し、そうした民青の「日和見」的な活動をまさに暴力的に排除することが多々あった。各大学で全共闘が沸騰する前、いや67.10.08 「第一次羽田事件」以来の激動の7か月にあって、三派全学連が主流をなす状況の前、国公立大学では民青はまだ主導権を温存してはいた。しかし、他のセクト、とくに中核派の目覚しい躍進の中で、大学自治会、さらに全学連での重要ポストを次第に奪われていくのである。他セクトは、街頭闘争で機動隊との接触の中、防御と攻撃のために武装するようになり、それは日々過激化していた。そうしたセクトは主導権争いのために、しばしば敵対し、それにゲバルトを行使するようになっていたのである。そうした中にあって、民青は他セクトの暴力に耐え忍んでいたのだが、敵対セクトの暴力には正当防衛で立ち向かわなければならないとして、ついに武装集団を結成したのである。それがあかつき行動隊である。
11.04 加藤教授が東大総長代行に就任、東大全共闘を主な交渉相手と認め丁々場の団交に入る。そして、その丁々場の団交が決裂した11.12 安田講堂内で東大全共闘の総決起集会後、総合図書館前で待ちかまえていたあかつき行動隊と内ゲバ。宮崎のみごとな指揮のもとに、全共闘諸派連合武装部隊は総崩れとなった。民青VS全共闘で、武力においても全共闘が劣勢になった決定的瞬間である。11.14 法学生大会、「全学封鎖反対決議」が通り(賛成371、反対126)、全共闘側にとって不利な状況となる。この11月において、民主化闘争的な要求貫徹はすでに後退してしまい、東大一校だけの改革には納まらず、全大学の共闘へと拡散する反体制闘争を東大全共闘は指向し始める。11.22 その意向は、日大・東大闘争勝利全国総決起集会という形で現れる。ここに、日大全共闘と東大全共闘は合流する。しかしながら、この日大全共闘も10.01 の敗北によりノンポリ学生の支持を集めていたわけではなく、各セクトの出張メンバーのごときものであった。しかも日大生だけによらず各セクトの指示でまさに他大学から出張させられた寄合所帯のごとき日大全共闘であった。このときも、民青系は大会阻止のために7千名を動員していたが、東大学外には4千人の機動隊が待機、いざ内ゲバとなれば、雪崩を打って機動隊に排除されるのは目に見えていた。テレビメディアも集合している事情で、日共中央からも共産党員が内ゲバなどの映像を撮られることを極力回避したいということで暴力沙汰厳禁を指示されており、なすすべ無く教育学部前で一夜を過ごした。このような流れで東大全共闘は息を吹き返したと見るのは間違っている。一般の学生からは最早見捨てられており、各セクトの介入により諸派の勢力争いに引きづられており、まさに具体的な着地点を見定められなくなってしまっていた。反帝国主義打倒、反スターリニズム打倒を掲げて最早大学当局を相手にした闘争の域を超えてしまっていた。漠然とした闘争のための闘争、最早勝つためではなく、いかに格好良く散るか、だけが闘争を終結させる方法に自らを陥れてしまったわけである。ノンセクト・ラディカルの限界。東大全共闘議長の山本義隆はテンデバラバラの各セクトを取り纏めるのに必死であった。一方、各セクトは東大全共闘と心中する気はさらさらなく、東大に送り込まれたメンバーはほとんど新参の党員ばかりで碌に機動隊と対峙したこともない者も多かったということだ。要するに、幹部が逮捕されてしまうことはセクトの弱体化に繋がり、それを避けて、しかも70年安保の拠点としての東大に勢力を拡大することを巧妙に意図していたわけである。12月の東大構内は、そうした各セクト間の内ゲバの日々であった。民青系と全共闘の内ゲバも絶えなかったのであるが、例えば、12.06 社青同解放派と革マル派との間で流血の内ゲバが起こっている。このように各セクト間でも内ゲバは行われたのだが、例えば、その最中に民青系が顔を出そうものなら、今まで敵対していた両セクトがなぜか連帯して、民青系の武装集団と今度は内ゲバを行うという、異様な戦争ごっこであった。大学当局にとっても12月は、入試試験を開催する目途を立てなければいけないリミットであった。卒業生たちにとっても、このまま学内封鎖が続くことは、卒業できない=就職浪人というリミットであった。寝トライキ4年生たちはそうした思惑で、有志グループあるいは民青系による学生会議でスト解除を決議し、年末までにバリケード解除に漕ぎ着ける学部もでてきた。越年した学部は、教育学部、農学部、工学部、薬学部、文学部、理学部だけだった。12.29 入試試験中止が決定される。ある意味、大学解体を謳っていた全共闘にとっては、ひとつの勝利だったのだろうが、最早それどころではなかったのだ。69.01.04 加藤東大総長代行は非常事態宣言を発動。 01.09 午後8時16分、加藤総長代行は、「第一に経済学部で危険な状態にある学生の救出、第二に教育学部で包囲されている学生の救出、およびそれに伴う必要な措置をとるため、警察力の出動を要請」した。この「経済学部で危険な状態にある学生」を代表していたのが福田内閣時に官房長官であった町村氏である。01.10 秩父宮ラグビー場で7学部代表団と大学側の集会。民青系が主導し、代表団と東大当局の間で「確認書」が取り交わされた。この時点で全共闘は完全に孤立する。01.15 東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会。山本義隆東大全共闘議長に逮捕状が出る。01.16 加藤東大総長代行が警視庁に出頭、機動隊動員を要請する。01.18 安田講堂攻防戦、始まる。

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1968 [ちょっと哲学的]

1968(上) 若者たちの叛乱とその背景  小熊英二

今回は、日大闘争と東大闘争を搔い摘んで紹介する。1960年代当時、日本大学は最右翼的な大学で、学生は何から何まで管理されている状態であった。しばしばそうした体制に対しての不満や批判も噴出するのであるが、大学側にべったりの体育会系のサークル、部活を除いて、学内で抗議行動(運動ではない)でもしようものなら即刻退学処分となるほど、学生は大学当局から弾圧されていた。そうした中、68.01.26 日大理工学部の小野竹之助教授が裏口入学の斡旋にからむ不正入学金5千万円の不正所得及び脱税事件が発覚、5月までに東京国税局は日大を一斉監査した結果、22億円の使途不明金があることを公表する。それ以後、この使途不明金と学内検問体制などを弾劾する討論会を経済学部と短大経済学部の学生会が度々開催するも、その度に体育会系「右翼」に恫喝され暴力により排除される。しかし、05.23 同じく学生会により経済学部地下食堂ホールで抗議集会を開催した折は一般学生で満杯となり、動員された体育会系「右翼」約100名の暴力排除行為も、一般学生からの暴力反対の罵声に躊躇し暴行を中止するほどであった。この集会に更に加わろうとする学生が地下への階段へ殺到したため、大学当局はこの階段のシャッターを封鎖し、その後、ホールにいた全員を学外へ排除した。しかし、排除された学生約2000名は抗議のデモ隊列を組み、白山通りから錦糸公園まで日大200メートルデモを行う。次の日の抗議集会は体育会系「右翼」に阻止されるが、学部校舎前での集会、200メートルデモを、体育会系「右翼」による妨害を受けながらも行った。必死の大学当局による鎮圧行為であった。05.25 この一連の騒動に対する学生処分として、秋田明大以下13名(経済学部学生会執行部および有志活動家)処分発表するも、集会動員数は約5000名と膨れ上がった。そして、05.27 全学部の合同集会によって日大全共闘が結成され、秋田明大が議長に選出された。日大闘争は、当初、大学当局の圧制を排除し民主化を要求する「学内改良闘争」であった。大学当局に、全理事長の退陣・経理の公開・集会の自由承認など5つのスローガンを掲げて、再三の大衆団交を要求するが、古田日大会頭はことごとく無視、ついに 06.11 日大全共闘は、学内をバリケード封鎖、その後も体育会系「右翼」の襲撃などの妨害を受けながら、団交要求をするが、一旦整ったかと思えた団交を一方的に無期延期にしたりと古田体制はワンマンであった。9月に入ってもそうした硬直的な態度であったが 09.30 ようやく団交にこぎつけ、ほぼ日大全共闘の要求に沿った内容で古田体制側と合意した。日大闘争は、これで勝利したかに思えた。しかし、時の首相佐藤が内閣懇談で「日大全共闘の行為は、集団暴力である」と発言。大学側は合意を反故にし、その後、機動隊出動を要請しバリケードを撤去してしまう。日大闘争は、これで終息気味となるのだが、東大闘争と急接近することにより当初の「民主化闘争」から「反帝・反スタ」的な反体制闘争の色彩を強めていくこととなる。
一方、東大闘争は、医学部で、登録医制やインターン制などの実質的無報酬研修に対しての反発から端を発している。医学部では、依然、近代的封建的な大教授の門弟下での徒弟として卒業し、研修という名の無報酬労働に5~10年奉仕し、その後は晴れて系列化の病院等に配属という形式であった。医者の子女など経済的に恵まれた環境にある者ならいざしらず、東大医学部には、20代を無収入で生活できない者も多々あった。そうした医者の卵たちは、当然アルバイトで生計を立てることになるのだが、当時のアルバイト収入は一般サラリーマンよりもよかったということで、一概に経済的理由ばかりから闘争の火種が点いたともいえない。また、64慶大闘争、65早大闘争、66中大闘争が学費値上げに対する反発で、「学内改良闘争」であった。そして、これらの闘争を勝ち得たのは、66中大闘争と66横浜国大闘争くらいなもので、ほかの闘争はいわゆる落としどころ、大学側とのある程度の合意に達することなく、たちがれていく。そのそれぞれの闘争には、それぞれの特色があり、その過程においても様々な特色があったのであるが、ほぼ自然発生的に全学化し、64慶大闘争で採用された「バリケード封鎖」という戦術を使い、セクトが自派の勢力を獲得するために介入し、最後は一般学生に愛想をつかされて孤立化する、といったところが各全共闘運動の流れのようである。ただ、東大闘争が、その後に全国的に模倣されるのではあるが、他の闘争と異質であったのは、院生や助手が闘争の中心であったこと、自治会の大分を占めていた民青とは別個にいわゆるノンセクト・ラディカルによる全共闘(全闘連)が取り敢えず主導したこと、がまず揚げられる。東大闘争の流れを参照してもらうと、医学部全闘委が卒業式阻止など、68.02.19 上田内科春見医局長監禁暴行事件、の処分に対する実力行使を展開し、06.15に安田講堂を再占拠するまでは、単に医学部全闘委の闘争であったともいえる。しかし、これの排除に大河内東大総長は機動隊を導引、06.17 大学の自治が破られたとして、これを聞きつけた学生や院生が自然発生的に講堂前に集まり、抗議集会を行う。この約300名も、講堂内に事務所をあてがわれていた文部官僚が大河内総長に詰め寄り、「あの学生たちを講堂から追い出せ」と指示、またも機動隊により排除される。この事態が東大生、院生の感情にさらに火を注ぐこととなる。06.18 東大大学院生が東大全学闘争連合(全闘連)を結成し、代表に理系大学院生の山本義隆が就任した。昼過ぎには3000名規模の集会とデモが行われ、翌日には各学部で学生大会が開かれ、続々とストライキが決定されていった。その後もすたもんだしながら、07.05に代表山本義隆の東大全学共闘会議(東大全共闘)が結成される。初期の東大全共闘の要求は、1.医学部不当処分白紙撤回! 2.機動隊導入を自己批判し、声明を撤回せよ! 3.青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ! 4.文学部不当処分撤回! 5.一切の捜査協力(証人、証拠等)を拒否せよ! 6.1.29日よりの全学の事態に関する一切の処分を行うな! 7.以上を大衆団交の場において文書をもって確約し、責任者は責任をとって辞職せよ! の7要求で、東大闘争以前の各大学で闘われた「学内改良闘争」とほぼ同列のものであった。方や民青系も「学内改良闘争」的な4要求を東大当局に示していたのであるが、当初東大当局は、全共闘を非公式の団体として交渉の相手として見ておらず、民青系の自治会の4要求に沿う形で学生評議会の設置を標榜していた。全共闘サイドは、この学生評議会なるものは東大当局の御用機関化するものとして反対していた。東大の教員や助手には日共の党員も少なからずおり、民青系はそれなりに力を持っていたのだが、67.10.08 「第一次羽田事件」以来の激動の7か月にあって、三派全学連が学生側の主流をなす状況にあって、東大学内においても民青系の求心力は急落していた。68.08.10 東大当局は、緊急評議会を開き、「8.10告示」大学側最終案をまとめ一方的な告示を出した。7月の東大全共闘発足から全学のスト突入は継続されていたが、08.28 小林新医学部長の団交拒否を理由に全共闘は医学部本館を封鎖した。このころから東大全共闘と民青系との抗争が激化していくことになる。そうした抗争も交えながら、10.12 法学部もバリケードを築き、東大全10学部が無期限ストに突入することとなった。東大が機能麻痺の状況となり当局サイドも学内紛争を終息出来ない引責として、11.01 大河内東大総長が辞任、10学部長も全員辞任した。11.04 加藤教授が総長代行に就任、丁々場の団交に入る。
次回、安田講堂攻防戦に至るまでの経緯を熱く騙りたい。



ミュルテプリシテ [ちょっと哲学的]

〈帝国〉  グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性  アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート


文明論之概略福澤諭吉がタネ本としてギゾーヨーロッパ文明史を使っているのであるが、この文明開化の俊英が引用しないようなところを強調的に引用しているのが〈帝国〉である。まぁ、「概略」との比較をするまでもなく、〈帝国〉はポストコロニアルであり、「概略」はアンチコロニアルである、という視点であるから、それこそ欧州に限らず世界的なここ300年くらいの歴史を概略すれば、世界分割の後とは何か、という視点なのである。アンドガタリでも述べたように、ポスコロ世界のヘゲモニーを確立した新たなる主権の頂点にあるのがアメリカ合衆国なのだが、ローマ帝国とのアナロジーで語られながらも、資本主義社会における民主制という視点からマルチチュードという概念を対置するのである。資本主義社会の、特にアメリカは混合政体であるとして、ポリュビオスのローマ帝国モデルを下敷きに、貴族制、君主制(フーコーのいう生−政治を含む)そして民主制の政治形態がハイブリッドに混ざり合っていて、これがモンテスキューの三権分立のように互いにけん制しあっているということを言いたいようである。このモンテスキューを踏襲したヘーゲルを極力排除して、そしてカントの図式化に堕しないために、マキァヴェッリを踏襲したスピノザを引用してくると、このマルチチュードという答えが出てくるしかないのであるが、この単体的なモナドに多数多様性を付加しなければ現在的な〈情況〉(シチュアシオン)が見えてこないために所謂ポストモダン思想(主にドゥルーズとガタリ、その影でリオタール)を横領しているのである。ポストモダンで変奏された唯物史観からヘーゲルを限りなく排除し、まだ有効だろうと思われるような共産主義理論を根気よくキルティングした闘争の実践のための心得書き、といったところだろうか。これは悪気でいっているのではなく、マルチチュードたる、そしてプレカリアート、さらにルンペン・プロレタリアートであるサイコも何かしらのことがあれば、闘士となる場合もあるだろうけれども、すぐ日和ってしまう小市民的存在なので、すぐさま実践という風にはならないからである。こうした実践理論の〈構築〉こそがマルチチュードの労働、ということだ。まさにカルチュラル・スタディーズの元祖のような感じである。さらに訳書たる〈帝国〉の〈 〉こそは吉本隆明シンパの〈自立〉マークにほかならない。今なお革命的であれ!という証である。
さて、帝国主義から〈帝国〉への移行、という唯物史観的な見方ではあるのだが、アメリカ合衆国自体が〈帝国〉ということではない。アメリカ合衆国は、あくまで〈帝国〉の内部でヘゲモニーを掌握したピラミッドの頂点にある主権、ということである。アメリカ合衆国は実態的な主権であるのだが、〈帝国〉自体は場所というものを持たない。〈非−場〉としてあるのである。フランシス・フクヤマが歴史の終焉をいうとき、「単一の統一された敵を名指すことがますます困難」となった情況を指し示している。近代的主権は、外部を持つことによって、確たる自己、すなわち内部を同定し、外部の内部化、すなわち植民地化が可能であったのだが、新しい主権、〈帝国〉においては、内部化する外部は存在しない。敵対する外部など無いわけである。しかし、それは反転する。

 ・・・・世界的規模の戦争機械がまるでSFのように次第に強力に構成され、ファシスト的な死よりもおそらくもっと恐ろしい平和を自己の目標に定め、すさまじい局地戦を自分自身の部分として維持し、誘発し、他の国でも他の体制でもない新しいタイプの敵として「任意の敵」に狙いを定め、一度は裏をかかれても二度目には立ち直る反ゲリラ要員を特訓しているのだ・・・・しかしながら、こうした「世界」的ないし「国家」的戦争機械の諸条件、すなわち固定資本〈資源と物資〉と人的可変資本こそが、変異的、少数者的、民衆的、革命的なさまざまな機械を産み出す予想外の反撃や、意想外な発意の可能性をたえず再創造するのである。千のプラトーP477

「いたるところにマイナーで捕まえにくい敵たちが存在しているように」みえるため、「近代性の危機の終焉は、汎−危機(オムニ−クライシス)を生み出したのだ。」(〈帝国〉P246) 外敵は存在せず、内部に潜伏するテロリストという「任意の敵」に標準をあわせている。「世界」的ないし「国家」的戦争機械は、局所に存在する「恐怖」を利用しているともいえる。外部に敵はいないが、というよりも外が存在しないのであるから、内部のいたるとところに潜在的恐怖が歴史の終焉によって見え隠れしている、ということである。歴史は終焉してしまったのであるから、ポスト〈帝国〉という史観は不適切ではあるのだが、そうした内部的恐怖によるある意味恐怖政治によって、ピラミッドの底辺にいるマルチチュードはまさに管理されている。しかし、ソ連邦が崩壊するごとく、その恐怖政治(〈帝国〉権力の統合性と連続性が極端に高まる専制政治)もマルチチュードを暴力的に管理する、まさにバイオ−ポリティクスの行使のあらゆる場面を通して、逆に免疫が低下するがために罹患するがごとく、決壊しはじめる。この二律背反の共時的作動によって、〈帝国〉は体制を維持せんがためにマルチチュードに及ぼす自らの権力によって、自らも弱体化させるというのである。マルチチュードからの反動ということではなく、及ぼす力によって疲弊する(本では腐敗といっている)わけである。そして〈帝国〉を通過した後に、マルチチュードのリゾーム的(リゾートじゃない)世界が現れるのである。まぁ、それにしてもこの〈帝国〉という本はまさにリゾームのラタトゥイユである。中に引用した、千のプラトーのここをネグリ等は注釈として付すのであるが、一種のパロディーという視点は棚上げしておこう。ミルプラを限り無く現状へ当てはめてみた理論というところである。もともと〈帝国〉には場所が無い、いや非ず(在らず)なのだから存在論も通じない。非−場というプラトンがいう「コーラ」の、まさにローマではないアメリカスとしての現実の〈非−場〉ということである。ソ連邦は崩壊したのであるが、〈帝国〉は果実が熟れ過ぎた終に解けるように崩れるヨウカイとなるのであろう。それこそはまさにマルチチュードが国家を超えた意味での主権となるときである。しかし、ヨウカイは死したことに気づかず、デス-ポリティクスとでも言うべき反動的恐怖を持続させるであろう。まさにマルチチュードはミュルテプリシテであるのだが、インターナショナルというマルクスの予言にも取り憑かれているからである。



メーデー、メーデー [法の下の平等]

今日は、井上陽水なぜか上海をバックミュージックに、ここのところのニュースを総括してみよう。まぁ、なんといっても史上最大規模の上海国際博覧会が無事?開幕した。開幕前にPRソングの盗作問題で、結局、岡本真夜そのままの君でいてが公式PRソングとなったり、万パクなどと揶揄されていたのだが、兎も角、開幕した。まぁ、盛大な開幕式でもあったのだけれど、これは5/1というのは世界的にメーデーという労働者のお祭りの日なのだが、中国でもやはりそうで、特に共産主義という建前から労働者のほんとのお祭りの日、要するに勤労感謝の日で3日間祝日なのである。まぁ、だけどそこに照準をあわせてくる現在の中国というのも、何度も言ってるように共産主義国から協賛主義国に対外的には変貌しているわけである。まぁ、連休で万博に押しかけてくる物凄い数の人でトラブルも絶えないだろうけど、死人が出ないことを祈るばかりである。まぁ、サイコは宝くじでも当たらない限り行かないけどね。うーん、当たっても裁判するんだったか[ふらふら] さて、隣の国のお祭り騒ぎなんぞはどうでもよくて、今、巷で騒がれているのは沢尻エリカの動向だろうか。高城剛氏を事業仕分けするなんぞとは、おそろしやー。はい、高城氏は「メーデー、メーデー」と返信の無いメールを送り続けているのだろうか。まぁ、そんな緊急事態的な〈情況〉は、民主党幹事長も動揺なのだけれど、サイコはなぜか上海、じゃなくてそれでも民主党を応援してしまうのだね。ここにきて佐藤優の悪影響を受けているのだろうか。ということで、飛行機が墜落するときのSOSを「メーデー」というんだけどね、そういやー、プレカリアートの祭典はどうなってる?



タグ:雨宮処凛

世界の中心で・・・ [ちょっと哲学的]

沖縄・久米島から日本国家を読み解く   佐藤優


地政学は、現代では歴史学の一部となってしまったようであるが、近代においては、植民地開発あるいは軍事的侵攻等にとって戦略上重要な学問であったようだ。そうした意味からも、現代ではポストコロニアルの時代なのだが、この著もまさにポストコロニアリックである。まず、諸概念から、亜民族(ナロードノスチ)とは、人種・言語・文化が相対的に均質で、民族に先行する段階の形態をいう。佐藤が言うところでは、「国家を持つには至らないまとまった民族体」のことで、「私自身は、沖縄人という民族意識をもっているのだろうか? ロシアの民族学者ユーリー・ブロムレイのエトノス論に基づけば、この問題は簡単に解決することができる。沖縄人という自己意識は、民族(ロシア語のナーツィヤнация)に至る前段階の亜民族(ロシア語のナロードノスチнародность)であるということだ。亜民族意識は日本人というアイデンティティーに吸収されてしまう可能性もあれば、独自の民族に結晶することもある。結局、沖縄人は、完全な日本人であるか否か、沖縄人という民族であるか否かという問題意識を常に抱えざるを得ないのである。(「沖縄・久米島から日本国家を読み解く」P300)と言っている。こうした複合アイデンティティの逡巡の結果、佐藤は日本人として、というよりも国際的感覚を持つ者(コスモポリタン)となるのである。ここへの導きの糸は、仲原善忠という久米島に生まれた郷土史家の「久米島史話」(仲原善忠全集 第三巻 民族篇)によるところが多い。実際、「沖縄・久米島から日本国家を読み解く」では、「久米島史話」からの引用が多く用いられている。コスモポリタンへ至る道筋は、「久米島史話」には書いてあるはずもないのだが、仲原の生涯から佐藤が思い至るわけである。久米島の新垣の杜を世界の中心として見る。そこで、世界と歴史はどのように見えてくるのか。1400年代、久米島には親方(ひや)という共同体の指導者がいた。そこへ、琉球王朝成立で討伐を逃れてきたと思われる豪族が、島外から来て久米島を支配するようになる。この支配者を按司(アジ、アンジ)というが、この島外士族と島民は戦わずして支配下に入るのである。武力では徹底的に劣る島民に無益な争いをして犠牲者を出すことを回避したわけであるが、この按司と島民との交渉役が「堂のひや」という島内とってのエリートであった。1510年に琉球王朝の支配が及ぶまでは、久米島では按司に支配され、「堂のひや」は年貢の徴収役をして共同体を維持していた。しかし、琉球王朝の討伐により按司は、ついに最期と、わが子を「堂のひや」に託すのであるが、預かった後、「堂のひや」はその幼主の髪の毛を結うふりをして絞め殺してしまう。それで首里城に行き、前の按司の息子が病死したとして、自らをを按司にするよう嘆願して任命してもらう。嬉々として帰った「堂のひや」だったが、入城する際に落馬した折に、脇差が刺さって死んでしまう。確かに按司の子供を殺す必要はなかったかもしれない。残虐なところもあったが、按司は外から来て久米島の住人から年貢を取り立てるような部外者で、「堂のひや」たちも心から従っていたわけじゃない。按司とともに殉死する必要はないし付き合う必要もない。天命が離れたのだから。久米島や琉球には、この天命という易姓革命思想により共同体を機能させていた。共同体を治める者には徳がなければならず、その徳が失われれば、天命が離れた、ということになり新たに徳のある者、天命を受けた者により統治されることとなるのである。「堂のひや」についても天命を受けていたわけではなかった。それで落馬して死んでしまうのではあるが、佐藤、いや仲原は、「この堂のひやこそが久米島の英雄なんだ」と、英雄伝説としての「堂のひや」に久米島性を見るのである。そして琉球王朝時代前から続く祭政一致体制内の宗教的な部分として、ノロユタたちを束ねていた君南風(きみはえ、チンペー)という高級神女がいた。1500年、オヤケアカハチの乱において久米島の君南風が琉球王府軍に随行し、討伐が始まるまさにその前に、相手側(石垣島)のノロたちと対峙し、呪言を投げ交わすのである。呪言といっても、要は「王府軍の圧倒的力の前には勝ち目が無いので潔く降伏しろ」という情報を先駆けて、相手に知らしめる役目をしているのである。この神力によって、石垣のノロたちは霊感して退去するということであったようだ。この功績が認められ、聞得大君により33神女の列に加わり、高位に配されたようである。そして、1609年、薩摩による琉球侵攻により、久米島も薩摩藩と清への両属という体制に組み入れられる。それまでは自由貿易的な恩恵にも浴していたのであるが、江戸幕府の鎖国体制によって、海上貿易からの利益を得られなくなった。1853年、琉球に黒船が来航した際に、史実をつなぎ合わせてみると、ペリー一行は久米島に食料調達のために立ち寄っていたということである。1879年、琉球処分により沖縄県に組み入れられる。そして、1945年、太平洋戦争の終結へと流れていく。その沖縄戦において、久米島の当時の指導的立場にあった者は、「堂のひや」的に日本軍と米軍の間で中立を維持することとしていた。それによって「集団自決」は起こらなかったのであるが、パニックとなった前戦の日本軍は、住民20人を虐殺してしまう。日本軍の支離滅裂な状況に比して、久米島の土着エリートは、共同体維持の最善を尽くすのに冷静であったということである。「堂のひや」モデルを念頭においてコスモポリタンとなること。久米島の新垣の杜に最初に神々が降り立った、そこがコスモの中心である。





吉本隆明の時代 [ちょっと哲学的]

吉本隆明の時代  絓秀実


いやー、この本は多分、ここに出てくるありとあらゆる人(当然、「普遍的」知識人、「種別的」知識人、「聖職者的」知識人、「自由浮動的」知識人も含む)について多少でも知っていなければ、とてもついていけないような本だとは思うのだが、何故かサイコにはすんなり入ってきた。まぁ、例によって、〈民主〉と〈愛国〉を一応、通読しているから背景的なものがあるのではあるが、はっきり言って、背景でしかないのである。絓の1968年は非常にリンクするのでどちらかといえばそちらが参照先にもなるのだろうが、吉本隆明の時代は60年安保が主なテーマであるから、重複する部分に留まっているのである。ではなんですんなりいけたのか。簡単に言ってしまうと、このブログで、特に思いたって最近紹介しているような著述を取り敢えず読んでいたから、ということである。もうちょっと敷衍すると、それこそサルトルの時代背景というところを、デリダの「パピエ・マシン」で取敢えず知っていて、個別にレヴィナスの入門書レヴィナス入門なんかも読んでるので、サルトルとの関係、あるいはフーコーの間接摂取とメルロポンティをちょっと読んでる、というようなニューアカ通過者であるサイコにとってはそれら知の集積が、これに書かれているような感慨でもあるからである。決してニューアカ(ポストモダン)を書いているわけではないのだが、十分そこから吉本隆明の時代に遡及できているのである。
いきなり結論的な部分に入るが、P350で、 前略 - ここでは、吉本のアナルコキャピタリズム風のリバタリアニズムが発揮されている。 - 中略 - 津村の記憶を失ったあとの新左翼や市民主義、文化左翼たちの主張の現在にいたる歴史は、そのことを証明している。(注釈 - たとえば、朝鮮人などの「従軍慰安婦」問題を主要な契機とした、九〇年代後半の高橋哲哉(『戦後責任論』)と加藤典洋(『敗戦後論』)の論争を見よ。これが、津村と吉本の論争の劣化コピーであることは明らかである。)
まず、「アナルコ~」というのが意味をとりにくいと思うのでサイコ的に砕くと、無政府資本主義風の自由至上主義ということかと。津村喬と吉本の論争というのは、例えば、言葉狩り的な批判(津村)に対して吉本が支離滅裂なのだけれど、差別語を差別の問題においても直裁的に使用して説明すべきことをいっている。この吉本の論法を、絓は「倫理主義を「否認」することで、倫理フェティシズムにおちいる」こととして、七・七華青闘告発を通過した新左翼諸党派の末路に言及しているわけである。そして、注釈で文化左翼?のトンデモを告発しているわけだ。このページがこの本の全てを象徴しているといっても過言でないほどに、このテクスト内に凝縮されている。
後、ついでに例の「〈民主〉と〈愛国〉」てあるけれど、この〈 〉というのが、いわゆる吉本隆明シンパたちには「自立」マークと言われていたことは初めて知った。いや、それで絓が、この横領に対して、もっとちゃんと吉本を論ぜよ、というのであろう。証左に、絓は決して吉本を全肯定しているわけではなく、大いに間違いを指摘しつつ、主な論争の相手の正論的なところも抽出しているのであるが、何故、吉本が論敵に勝つことができたのか、というところまで掘り下げているのである。そうした意味で、サルトルとのアナロジーでもって展開されるので、結論は
「資本主義が存続している限り、「革命的」知識人の問題はすべて未解決のまま残されている。そのことを無視して、吉本の「終焉」を語ることはできない。「サルトル」がそうであるように、「吉本隆明」も不断にれわれにつきまとい、回帰してくるのである。」P353
としている。
1894年、フランスでドレフュス事件という冤罪事件に端を発して、「知識人」による体制側への糾弾があった。作家エミール・ゾラが、軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した公開質問状(私は弾劾する)を大統領フェリックス・フォールに宛てたものとして新聞掲載したのだ。このアナロジーから、六〇年安保で知識人たちが権力に対して糾弾する行動は、日本におけるドレフュス事件であり、その中から「革命的」知識人が誕生してきた。その代表的、象徴的な存在が吉本隆明その人であった、ということである。同時代におけるアナロジーとしてのサルトルは、しかしながら絶対的というか圧倒的な支持によるヘゲモニーを掌握していた「普遍的」知識人であった。その差異は、サルトルの来日(1966年)で明確に意識されるのであるが、「サルトルの時代」は過去形なのだが、「吉本隆明の時代」は現在形なのである。
そして、その〈革命的〉な〈情況〉は、高度に資本主義である現代においてもなお継続している。なぜならば、資本主義自体が〈革命的〉に変革し続けるものであるからである。



余臭 [ちょっと哲学的]

〈民主〉と〈愛国〉  戦後日本のナショナリズムと公共性  小熊英二


1968(上)を読むのであれば予習的に読んでおくべき本を紹介しておこうか、とまたも膨大(P966!)なことを言うのだが、全共闘の時代を一応は包括しているのであるが、「〈民主〉と〈愛国〉」ではその時代とパラレルであったベトナム反戦運動にスポットがあてられている。なので「1968」では、例えば三派全学連が、いかにして佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争をしたかを詳述しているのだが、「〈民主〉と〈愛国〉」ではベ平連のエンプラ寄港反対デモに少し触れるに留まっている。これはそれぞれの本のテーマの違いによるもので、「〈民主〉と〈愛国〉」では、『新しい時代にむけた言葉を生みだすことは、戦後思想が「民主」や「愛国」といった「ナショナリズム」の言葉で表現しようと試みてきた「名前のないもの」を、言葉の表面的な相違をかきわけて受けとめ、それに現代にふさわしいかたちを与える読みかえを行ってゆくことにほかならない。それが達成されたとき、「戦後」の拘束を真に乗りこえることが可能になる。そして本書を通読した読者にとって、そのための準備作業は、すでに終わっているはずである。』(「〈民主〉と〈愛国〉」P829)と結論付けている。「1968」については、ヒント的に先回書いたことと重なるので、また読了時に騙りたい。
さて、絓秀実には不評である「〈民主〉と〈愛国〉」である。先ほどのベ平連や鶴見俊輔を無批判に受容し検証なく分析した結論に対して手厳しく批判されている。実際、絓の1968年の方を読むと、実にベ平連の裏がよくわかるのである。しかしながら、誹謗中傷という類ではなく、生産的な批判精神であり、小田実や鶴見俊輔を俎上にあげるのではなく、第三の男として山口健二に鋭くスポットを当てているのだ。この考察というものは、絓が批評家であるからできたということを超えている。翻って、小熊は社会学者として実証できる範囲に留まっているのだとすれば、うーん、それでも「日和見主義」とニューレフトからは揶揄されるだろう。
さて、1968年の全共闘運動は直接「〈民主〉と〈愛国〉」の分析の埒外としながらも、この運動の主体である学生たちによく読まれていた吉本隆明の変節を紐解くのにベース的に概略されている。この吉本隆明を戦中派の左派系として、この章の後に戦後派の右派系論壇者として江藤淳を分析している。両者とも戦後の高度経済成長期の主要な思想家、評論家であり、そこに纏わる言説から言語概念の変遷を分析しているのであるが、両者が戦後民主主義批判を展開する上で攻撃の対象としていたのが、丸山真男など戦前派となる進歩的文化人たちであった。「進歩的文化人にカテゴライズされる旧世代の左翼人」を賛美するということ、それに代表される丸山真男への好意的解釈がこの本の前提にされるとして、丸山を批判しつづけた吉本隆明や新左翼に対して冷淡に写るのはしごくもっともなことだ。それに、吉本が社会的パラダイムの変遷、高度経済成長期から大衆消費社会へ移り行く中で、簡単に言うと家族主義的になってしまったことまで追っていくのであるが、まぁ、これは大半のノンセクト・ラディカルまで含めた同世代人たちもそうした「新しい家族」を形成していくのと同列ということだけだろう。詩人とは、新しき言葉を紡ぐ者のことを言うのであるが、吉本は詩人である。小熊が「名前のないもの」に新たな意味と名が付与されていく過程を分析するときに、社会学者として「新しき言葉」では説明しない。いや説明できないのであろう。文芸批評家であればそれは可能なのかもしれない。一応、カルチャラル・スタディーズとしてもアカデミーの領域での言説にはそうした限界を伴わざるを得ないのかもしれない。まぁ、それでも「1968」でも当然吉本は頻出してくるのであるが、その「詩的」な文言はほとんど記述されていないから、吉本や新左翼に対してはやっぱり冷淡かもしれない。
まぁ、兎も角もである。その時歴史がどう動いたか、を概略する意味でも素読して時間が惜しい本ではない。それを参照しつつ、ある一点を深化するときに誤謬があるのであれば、読者自身で訂正しておけばいいことだ。それとも、そのまま誤読しておいてもいいかもしれない。実際、全共闘時代の若者は吉本を大いに誤読して受け入れていたのでもあるから。


ポストモダニカル アンハピネス [ちょっと哲学的]

吉本隆明1968  鹿島茂

吉本隆明の本はついに読んでないサイコである。まぁ、栗本慎一郎との対談本である「相対幻論」を吉本の著述であるとすれば、唯一それだけで、もう20年以上前に読んだきり何が書いてあったかさへ、忘れてしまっているし。さて、その吉本が全共闘の時代前後に、あれほどまでに人気を持って熱く読まれていたのかを、全共闘世代である著者の体験なども通じて書かれたものである。しかしながら、 吉本は「反・反スタ思想家」なのであるから、いわゆる新左翼のセクトの活動家たちに熱狂をもって読まれるべきものとは違っていたはずなのであるが、難解な吉本の語彙にまつわる思想を彼/女らはかなり誤読しながらも受け入れていたようである。さて、第2章 日本的な「転向」の本質、において中野重治の「村の家」を解説する吉本を論じているのであるが、その当時以前、要するに大東亜戦争時からの左翼思想家たちの「転向」を論ずるにあたり、日本人的な気質について論じている。著者は、この気質をもとに「半日本人」と「無日本人」という選別をしている。「自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンとの隔たりが、日本におけるほどの甚だしさと異質さとをもった社会は、ほかにありえない」とする吉本の言説を簡易にするためであるのだが、敢えてそれは書かずにおくが、転向者の心情として「日本封建制の優性遺伝」をまざまざと見せ付けられたときに、自己の中で眠っていた「半日本人」が覚醒し、転向してしまうということである。かたや、自然主義者(田山花袋、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥)は、「家」の前近代的な封建的劣勢を攻撃のターゲットとしていたのであるが、「無日本人」とはそこにマルクス主義(など科学主義)の教義性を優性と思い込み、まさにブルジョア資本制を打倒してプロレタリア独裁による無政府、無国家を夢想する者らである。「無日本人」には「日本封建制の優性遺伝」の自覚はみじんも無く、マルクス教義を優性とする無国籍者、エグザイルなのである。さて、著者が見るところ、吉本はこの両者を批判し、第3の道を模索する上で中野重治の転向、「村の家」を批評する。ところで、大塚英志江藤淳と少女フェミニズム的戦後でも「家」に纏わる話で、中野の「村の家」を取り上げていたりするのであるが、「江藤~」では江藤淳の移り住みの「家」という夫婦での放浪が基底にある。「家」=家父長制=封建制が、戦後民主主義によって解体される過程の中で、家父長制を保守するために戦後民主主義を批判したわけではないのだが、江藤の場合、天皇制という最大の家父長制を擁護することで最終的にはそうした図式のようにも見える。まぁ、余談がながくなるので詳細せずにこれも第3の道のひとつということで切り上げるとして、中野の「村の家」から吉本は、ありのまま(現実の社会、大きな政治が細分されているところの個人が介在させられる政治)という現実を直視し、挫折を超え出るための「個の深化」を第3の道としているのであろう。これは竹内好に通じるところもあり、事実竹内の著述も当時の若者たちにはよく読まれていたのである。
さて、中野を評価する吉本であるが、中野と同じ共産党員である小林多喜二に対してはボロクソである。同じく最近よんだ浅羽通明アナーキズムにも少しだけでてくるのだが、昭和初期当時に共産党員であることを隠すための工作として、女性党員との間で偽装して結婚生活を営む「ハウスキーパー制」なるいわゆる性奴隷制度があった。この党員の生活を綴ったのが小林多喜二の「党生活者」であるが、その文学的価値もさることながら、人間的価値に対しても「低劣な人間認識を暴露した党生活記録」として断罪するのである。これを吉本は「引きずり下ろしの民主主義」の正当化とみなすわけであるが、これは大塚英志いうところの負の特権意識のことを言ってるようだ。女性党員の不平に対して多喜二は「多くのプロレタリアの苦悩を思えば取るに足らない」として自己の生活が犠牲となっている党員生活を、革命の過渡上の犠牲として女性党員の不平を全否定するわけである。しかし吉本は、個人を救えない者が万民を救うことが出来るわけがないとして、党生活者の欺瞞を糾弾する。マルクス主義者の卑劣、スターリニストの卑劣をとことんやり込めるわけである。
そして、第4章 高村光太郎への違和感、で吉本が光太郎が終戦時に詠んだ詩に対する違和から、光太郎の「転向」の問題に遡行していく。光太郎は、多くの左翼知識人の転向とは全く違う仕方で戦争賛美に傾斜していったことを、吉本は紐解く。転向ではなく必然、自然の流れであった、と見ることも出来るのだが、当然そこには吉本本人の皇国少年が重なってくる。詳細は省いてどんどん進むが、「かつて智恵子との個人的な生活上に構築した「自然」法的理念を、光太郎なりに時代の大衆的な動向に社会化しようと試みた」結果、戦争という浄化作用を光太郎が希求した結果ということである。ヴェルハーレン的自然法思想が大きく影響しているのである。それは、「氷河期到来による人類滅亡願望という「超越的倫理観」は、光太郎が世界性と孤絶性の葛藤を回避して、関係社会意識の構築を拒否するために編み出した自然法的な理念(セックスを始めとする人間関係をすべて自然法にもとらないという観点から律していこうという姿勢)から、ある種、必然的に導き出されたものであった」のである。
「大衆の原像」から「自立の思想」へ 、それは全共闘という時代とパラレルなかたちではあったが、高度経済成長へと社会的パラダイムが移行していく中で、全共闘世代の彼/女らが個人の感情を的確に表現できる「言葉」を持っていないところに、これぞと思える、幻惑、魅惑的な詩的な「言葉」を提示させられたから、感受したということなのであろう。セクト、新左翼運動家にとってそれが、マルクス主義の概念語であったのと同等に、「反・反スタ」の詩的言語をも受け入れられた人間としての矛盾。存在の耐えられない軽さ、の日本の封建的優性遺伝子が「現代的不幸」という腫瘍に侵され死滅するかのごとく。




アンドガタリ [ちょっと哲学的]

いやはや、3月ももう終わりに近づいている。桜もちらほら咲き始めているし、そろそろ本腰入れて社労士の勉強を再開しなければいけないのであるが、思いもよらずに、ネグリハートの共著で知られる帝国小熊英二1968(上)なんて本を読んでたりする。この両方ともかなりのページ数である。2週間リミットで読みきろうとするのであれば、どちらか一冊に絞ったほうがいいのだろうが、例によって、家で読むのと会社で読むのとを分けていたりするものだから、結局どっちつかずで両方とも途中読みで返却なのである。それで中途までの書評をとも思ったのだが、今回は「帝国」を読むのであれば、又マルチチュードを読むのであれば予習的に読んでおくべき本を紹介しておこう。

千のプラトー  資本主義と分裂症  ドゥルーズガタリ

 まずキーワード。ノマド(遊牧的)、戦争機械、条理空間VS平滑空間(必ずしも絶対的な区分があるわけではない)、ブラックホール&ホワイトホール(うず巻き)、器官なき身体、リゾーム、リトゥルネロ、etc.
 本書の書き出しは、地層の話から入るのだが、いわゆる堆積した層の区分が歴史のなんたるかを示しているというようなことで、ただそのボーダーな部分、どっちだろうというような臨界点への掘り下げをしていくわけである。意味は違うかもしれないが、本を横積みにした景観は、一種地層的な感じがする。当然、断層もあるわけで。これは、バシュラール的な知の断絶を呼び起こす。地層というのは、人の歴史以前から積み重なってきているもので、そこから始まって、現代資本主義までの総体まで思考するわけだから、すごい話である。
 黄砂の粒子としての浮遊性は、がちがち条理空間にいる日本人に別の干渉を与えてくれる。
 現代資本主義におけるストックの捕獲装置がどういうものなのか、あらゆる学術から多元的に分析している。そうしたリゾーム性による資本集中の図式、形式とともに、条理空間(現代都市)において、その中で平滑空間(海、空、砂漠など)を作り出す個別的な創造性を分裂症的と看做しながら、その起源的なものは、すでに遊牧民、あるいは戦争機械というものに古代から見てとれるということである。そうしたところから、現代はテクノロジーによってなる条理空間ではあるが、古代都市(条理空間)においても資本(ストック)の捕獲形式には大差はない。ただ、現代社会では、個別的な上に脱領土化→再領土化のサイクルが早い、絶え間なく繰り返されている。
 この書の分類は勿論哲学に入るわけであるが、作者たちは意図的にカテゴライズを拒否するかのような哲学的ではない概念を使用して、現代資本主義を分析しているが、そのひとつがリゾームである。日本語的に言えば、芋かと思う。イモ、ジャガイモが近いのか、切片性という概念も出てくるので。切り口だけからとは限らない。どこからでも芽が出て果実になっていく、いわゆるストック化するというのが、資本主義に限らず、知の場面でも言えるということか。であるからして、彼等からもらったこの種イモから、新しい花を咲かせて、新しいイモを増やす(分節化、分裂)という事であろう。そんなことで、わしもちょっとだけ花咲かせてみようかという気である。ミル・プラトーという音楽レーベルまであったくらいだから、多元多様体としてのイモは拡散しながら増えているのだろう。

さて、これもアンチ・オイディプスの続編として出された本であるが、656ページあるからかなり読了するのに時間がかるかもしれない。しかしながら、このポストモダンを理解したならば、「帝国」あるいは「マルチチュード」の概念はかなり分かりやすいのではと思われる。ネグリ等は理論上の今を措定するのにポストモダンを大幅に援用しているからであるが、彼等の学問的なカテゴライズはポストコロニアリズムをも標榜する現代世界論という観念論をベースとする哲学ということになるだろうか。まだ、中途読みであるからして、結論はいそがないのだけれども、取り敢えず、〈帝国〉とは。「〈帝国〉が、私たちのまさに目の前に姿を現している。この数十年間に、植民地体制が打倒され、資本主義的な世界市場に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに、私たちが目の当たりにしてきたのは、経済的・文化的な交換の抗しがたく不可逆的なグローバル化の動きだった。市場と生産回路のグローバル化に伴い、グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、ひとことで言えば新たな主権の形態が出現しているのだ。〈帝国〉とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである。・・・・・近代的主権は、どこに根を下ろそうとも、かならずや一個のリヴァイアサンを構築したのである。このリヴァイアサン自身、自己のアイデンティティの純粋さを保全し、それとは異なるものすべてを排除するための社会的領域全体を支配し、階層的な領土的境界を強いてきた。」(『<帝国>』p3-4)。<帝国>とは、そうした近代的主権の全く逆、というような主権として、まさに「宇宙的」な拡散、膨張を刻々と持続するのである。その経過というものが、ドゥルーズとガタリが語ってきたものを引き継ぐ形で批評されるわけであるが、パスティーシュのように思ってしまうのは、サイコが常に既にパロディアンであるからだろうか[ふらふら]





協働通信 [法の下の平等]

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて 佐藤優


インパーソナルで紹介した浅羽道明が05年当時に「平成の名著」と絶賛していたこともあって、例の西村検事との対決がどんなものか非常に興味をそそられたので続けて借りてきた。まず、復習として、「インパーソナル」とは花田清輝という左翼評論家が晩年、好んだ用語で「経済上の利益を度外視した機能的な人間関係」という意味合いにサイコは取っていたのだが、佐藤の場合は将来的保証上の利益をも度外視した、謂わば「義理」と信条と道理とを曲げずに、西村検事と「機能的な関係」を結ぶこととなったようだ。西村検事(東京地検特捜部)が目指すところは、佐藤供述から得られる材料をもとに鈴木宗男逮捕(結局は別件のやまりん事件においてあっせん収賄容疑で逮捕)の突破口を開くことに、方や佐藤が目指すところは、「国策捜査」により逮捕された我が身において無罪を勝ち取れない諦観を抱きながらも、「歴史」の誤謬を記するための供述調書を作成させることにあった。西村検事においても宗男逮捕の突破口として佐藤の供述調書を作成することが当初の目的であったわけだが、互いの意図するところはた大いに違ってはいても調書作成という目的に互いが収斂していくこととなるのである。佐藤にとっては逮捕自体がまず不本意で道理に合わないわけで、当然罪状については全否認を通すわけであり、ただ供述にあたって、鈴木先生に累が及ばないように徹底しなければならず、当時佐藤が率いていた国際情報第一分析課内に設置されていた「ロシア情報収集・分析チーム」に被害者(逮捕者)が広がらないように腐心しなければならず、そうした桎梏の中で、しかもまさに囚われの身で「歴史」を刻まなければならなかったのである。こうなると西村検事はラクラク調書を作成できるかに思えるのであるが、佐藤がはぐらかして作成を阻止しているわけでもなく、道理として否認はするが供述しているため、要は特捜の欲しい供述が得られないという困難に突き当たるのである。当然、得たい供述のために西村検事は、いろいろと「ひっかけ」てくるのであるが、佐藤はことごとくそれを避けながら供述していくので、ある程度取調べが進んだ段階で、西村検事はある意味佐藤に歩調をあわせる戦術に切り替えていく。互いに感情移入はしないのではあるが、佐藤も上記の「義理」と道義と信条を「宣言」するに至る。けして手の内を明かしているわけではなく、「国策捜査」が道義を逸脱している不当に対して検察側の道理が何かを応えさせるのである。「国策捜査」とは何か。時代のパラダイムが変換するときに、体制内の旧体質的な違法性に世論という悪夢が過剰に処罰要求を高めるがために、それを背景として「訴追有りき」をもって象徴的人物を特定して断罪する捜査方法である。しかしながら、西村検事にしても、この佐藤逮捕においてはその「巨悪」の排除の理由を図りかねていたようである。佐藤の容疑は、国後島ディーゼル発電施設事件における偽計業務妨害罪支援委員会不正支出事件における背任罪であるが、世論がほんとうに巨悪=鈴木宗男関連事件を暴くことを欲していたのだろうか。旧体質を排除せんがために特捜は罪を組み立てるのであるが、それは排除すべき体質であったのだろうか。兎も角も、「訴追ありき」である。有効な供述を得るために、西村検事は外交について勉強し、佐藤に質問し、外交とは何かを知っていく。そうした直接には罪状を確定する作業とは関わりのないところをも、佐藤を知るがために外交について知識習得するのである。佐藤は特に変わった被疑者であったのだが、それを取り調べることが出来て、調書作成までこぎつけたのは、西村検事の特捜としてのプライドと納得がないところには関わらない性格だからできたことのようだ。佐藤もそうした西村検事の誠実さを認めるに至り、あるレベルまでの迎合を行うこととなる。しかしながら馴れ合いの関わりには堕すことなく、まさにインパーソナルな調書作成の協働作業が進められていくこととなる。

獄中年表
02/05/14 支援委員会不正支出事件における背任容疑で逮捕
     17 取調べで西村検事の攻撃始まる
   6/04 背任罪で起訴。勾留延長。
     19 鈴木宗男衆議院議員あっせん収賄容疑で逮捕
       これに抗議して48時間のハンスト決行
   7/03 国後島ディーゼル発電施設事件における偽計業務妨害容疑で再逮捕
     24 偽計業務妨害罪で起訴。再勾留延長。
   9/17 第一回公判
03/08/29 鈴木宗男氏保釈
  10/08 東京拘置所から保釈される(勾留日数512日) 

背任罪で起訴された後に保釈を請求することも可能であったのだが、敢えて佐藤は、逆に勾留延長を求めている。ここには佐藤のひとつの戦略として「クゥオーター化」を継続することがあった。「クゥオーター化」というのは外部接触を絶つことによって情報を遮断することを言うのであるが、娑婆にでることは自らになんらかの情報が入ってしまい、またそれを漏洩する危険に晒されることを意味する。鈴木に義理立てしているのであるが、敢えて拘置所に留まることで、任意聴取期間ではあるが検察庁の動向を探ろうという意図にも基づいていた。そしてなんらかの動きがあれば、唯一の接見者である弁護人を通じて知らせるということを意図していたのだ。それでも鈴木は逮捕される。それに対して佐藤は、強いメッセージを込めて抗議のハンガーストライキを行うのである。そして再逮捕、公判と流れていくのであるが、保釈の請求の機会は常にあったようであるが、敢えて留まっていたようである。それにしても512日に及ぶ勾留期間というのは長い。しかして、最高裁まで上告するのであるが、ついに09年6月30日付で上告が棄却され執行猶予付きで刑が確定してしまった。第一審の被告人最終陳述において佐藤は、時代のけじめとしての今回の「国策捜査」が何であったのかを述べる。鈴木宗男というケインズ型公平配分方式の社会から小泉純一郎というハイエク型傾斜配分方式の社会へとパラダイムが転換されたことで、旧態を巨悪として排除するためのものと。
さて、再度パラダイムは変換されたのではあるが、小泉にはなんら「国策捜査」は今のところ及んでいない。政権交代によって民主党が与党となったのであるが、その幹事長に「国策捜査」的な動きはあるのだが。佐藤は、「歴史」の断層で不条理にも社会的な制裁を受けることとなった。「歴史」としてそのまま刻まれる誤謬を、後数十年後に公開可能となる外務省文書によって裏付けるための公判闘争。彼はそう思おうとしているのだろう。そして、行間からは地検特捜部の本質的な「排外的ナショナリズム」に裏打ちされた権力が、宗主国たるアメリカによって操作された帰来を感ぜずにはいられない。そう見ることによって、今回の一連の民主党幹事長へのアクセスというものも腑に落ちる感じである。



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