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1968 [ちょっと哲学的]

1968(上) 若者たちの叛乱とその背景  小熊英二

今回は、日大闘争と東大闘争を搔い摘んで紹介する。1960年代当時、日本大学は最右翼的な大学で、学生は何から何まで管理されている状態であった。しばしばそうした体制に対しての不満や批判も噴出するのであるが、大学側にべったりの体育会系のサークル、部活を除いて、学内で抗議行動(運動ではない)でもしようものなら即刻退学処分となるほど、学生は大学当局から弾圧されていた。そうした中、68.01.26 日大理工学部の小野竹之助教授が裏口入学の斡旋にからむ不正入学金5千万円の不正所得及び脱税事件が発覚、5月までに東京国税局は日大を一斉監査した結果、22億円の使途不明金があることを公表する。それ以後、この使途不明金と学内検問体制などを弾劾する討論会を経済学部と短大経済学部の学生会が度々開催するも、その度に体育会系「右翼」に恫喝され暴力により排除される。しかし、05.23 同じく学生会により経済学部地下食堂ホールで抗議集会を開催した折は一般学生で満杯となり、動員された体育会系「右翼」約100名の暴力排除行為も、一般学生からの暴力反対の罵声に躊躇し暴行を中止するほどであった。この集会に更に加わろうとする学生が地下への階段へ殺到したため、大学当局はこの階段のシャッターを封鎖し、その後、ホールにいた全員を学外へ排除した。しかし、排除された学生約2000名は抗議のデモ隊列を組み、白山通りから錦糸公園まで日大200メートルデモを行う。次の日の抗議集会は体育会系「右翼」に阻止されるが、学部校舎前での集会、200メートルデモを、体育会系「右翼」による妨害を受けながらも行った。必死の大学当局による鎮圧行為であった。05.25 この一連の騒動に対する学生処分として、秋田明大以下13名(経済学部学生会執行部および有志活動家)処分発表するも、集会動員数は約5000名と膨れ上がった。そして、05.27 全学部の合同集会によって日大全共闘が結成され、秋田明大が議長に選出された。日大闘争は、当初、大学当局の圧制を排除し民主化を要求する「学内改良闘争」であった。大学当局に、全理事長の退陣・経理の公開・集会の自由承認など5つのスローガンを掲げて、再三の大衆団交を要求するが、古田日大会頭はことごとく無視、ついに 06.11 日大全共闘は、学内をバリケード封鎖、その後も体育会系「右翼」の襲撃などの妨害を受けながら、団交要求をするが、一旦整ったかと思えた団交を一方的に無期延期にしたりと古田体制はワンマンであった。9月に入ってもそうした硬直的な態度であったが 09.30 ようやく団交にこぎつけ、ほぼ日大全共闘の要求に沿った内容で古田体制側と合意した。日大闘争は、これで勝利したかに思えた。しかし、時の首相佐藤が内閣懇談で「日大全共闘の行為は、集団暴力である」と発言。大学側は合意を反故にし、その後、機動隊出動を要請しバリケードを撤去してしまう。日大闘争は、これで終息気味となるのだが、東大闘争と急接近することにより当初の「民主化闘争」から「反帝・反スタ」的な反体制闘争の色彩を強めていくこととなる。
一方、東大闘争は、医学部で、登録医制やインターン制などの実質的無報酬研修に対しての反発から端を発している。医学部では、依然、近代的封建的な大教授の門弟下での徒弟として卒業し、研修という名の無報酬労働に5~10年奉仕し、その後は晴れて系列化の病院等に配属という形式であった。医者の子女など経済的に恵まれた環境にある者ならいざしらず、東大医学部には、20代を無収入で生活できない者も多々あった。そうした医者の卵たちは、当然アルバイトで生計を立てることになるのだが、当時のアルバイト収入は一般サラリーマンよりもよかったということで、一概に経済的理由ばかりから闘争の火種が点いたともいえない。また、64慶大闘争、65早大闘争、66中大闘争が学費値上げに対する反発で、「学内改良闘争」であった。そして、これらの闘争を勝ち得たのは、66中大闘争と66横浜国大闘争くらいなもので、ほかの闘争はいわゆる落としどころ、大学側とのある程度の合意に達することなく、たちがれていく。そのそれぞれの闘争には、それぞれの特色があり、その過程においても様々な特色があったのであるが、ほぼ自然発生的に全学化し、64慶大闘争で採用された「バリケード封鎖」という戦術を使い、セクトが自派の勢力を獲得するために介入し、最後は一般学生に愛想をつかされて孤立化する、といったところが各全共闘運動の流れのようである。ただ、東大闘争が、その後に全国的に模倣されるのではあるが、他の闘争と異質であったのは、院生や助手が闘争の中心であったこと、自治会の大分を占めていた民青とは別個にいわゆるノンセクト・ラディカルによる全共闘(全闘連)が取り敢えず主導したこと、がまず揚げられる。東大闘争の流れを参照してもらうと、医学部全闘委が卒業式阻止など、68.02.19 上田内科春見医局長監禁暴行事件、の処分に対する実力行使を展開し、06.15に安田講堂を再占拠するまでは、単に医学部全闘委の闘争であったともいえる。しかし、これの排除に大河内東大総長は機動隊を導引、06.17 大学の自治が破られたとして、これを聞きつけた学生や院生が自然発生的に講堂前に集まり、抗議集会を行う。この約300名も、講堂内に事務所をあてがわれていた文部官僚が大河内総長に詰め寄り、「あの学生たちを講堂から追い出せ」と指示、またも機動隊により排除される。この事態が東大生、院生の感情にさらに火を注ぐこととなる。06.18 東大大学院生が東大全学闘争連合(全闘連)を結成し、代表に理系大学院生の山本義隆が就任した。昼過ぎには3000名規模の集会とデモが行われ、翌日には各学部で学生大会が開かれ、続々とストライキが決定されていった。その後もすたもんだしながら、07.05に代表山本義隆の東大全学共闘会議(東大全共闘)が結成される。初期の東大全共闘の要求は、1.医学部不当処分白紙撤回! 2.機動隊導入を自己批判し、声明を撤回せよ! 3.青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ! 4.文学部不当処分撤回! 5.一切の捜査協力(証人、証拠等)を拒否せよ! 6.1.29日よりの全学の事態に関する一切の処分を行うな! 7.以上を大衆団交の場において文書をもって確約し、責任者は責任をとって辞職せよ! の7要求で、東大闘争以前の各大学で闘われた「学内改良闘争」とほぼ同列のものであった。方や民青系も「学内改良闘争」的な4要求を東大当局に示していたのであるが、当初東大当局は、全共闘を非公式の団体として交渉の相手として見ておらず、民青系の自治会の4要求に沿う形で学生評議会の設置を標榜していた。全共闘サイドは、この学生評議会なるものは東大当局の御用機関化するものとして反対していた。東大の教員や助手には日共の党員も少なからずおり、民青系はそれなりに力を持っていたのだが、67.10.08 「第一次羽田事件」以来の激動の7か月にあって、三派全学連が学生側の主流をなす状況にあって、東大学内においても民青系の求心力は急落していた。68.08.10 東大当局は、緊急評議会を開き、「8.10告示」大学側最終案をまとめ一方的な告示を出した。7月の東大全共闘発足から全学のスト突入は継続されていたが、08.28 小林新医学部長の団交拒否を理由に全共闘は医学部本館を封鎖した。このころから東大全共闘と民青系との抗争が激化していくことになる。そうした抗争も交えながら、10.12 法学部もバリケードを築き、東大全10学部が無期限ストに突入することとなった。東大が機能麻痺の状況となり当局サイドも学内紛争を終息出来ない引責として、11.01 大河内東大総長が辞任、10学部長も全員辞任した。11.04 加藤教授が総長代行に就任、丁々場の団交に入る。
次回、安田講堂攻防戦に至るまでの経緯を熱く騙りたい。



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