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お引越し [ちょっと哲学的]

ということで、正式なSo-netブロガーとなったサイコである。そう、今までは、ネットマイルというセコいポイントサイトで「ポイントがつく」と思って頑張って毎週書いていたのだが、どーも、ポイント獲得履歴を見てもポイント溜まってる様子がなくて、というかいきなり7月末で終了するから、過去に書いたもん消されたくなかったら、移れー、なぞと告知されたので、うーん、と考えて、というのはこんてんつ会員なのだけどソネットの一応IDは、持っているはずで、なのだけど完璧記憶(記録)が無い[がく~(落胆した顔)] のでいろいろとやってみたのだけれども、結局、新ID作って、というのが最短であったようだ。いらん試行錯誤のおかげで2時間かけてしまった[がく~(落胆した顔)] というか、こんなことしている暇があったら社労士の勉強せー、なんだけれどもね[ふらふら] またぞろ、「情況への発言」全集成(1(1962~1975))なんて、吉本隆明のを本とに借りてきて読んでいるところである。いやー、だから社労士の勉強は・・・・ うーん、何とかなるだろう[ふらふら] ということで、前にも書いた栗本慎一郎と対談本相対幻論を除けば、初めて吉本のものを、今頃になって読んでるのか、と思ったら、本棚の片隅にマス・イメージ論があるではないか。うーん、しかし見事に忘却していたということである。ということで、今頃になって読んでるわけでもない。けれども、この手の本に触手がのびるということは、サイコもイタイ人かもしれない。
ということで、来月は選挙である。先回、書き忘れたようなところも含めて、ちょっと考察してみよう。

マルチチュード  〈帝国〉時代の戦争と民主主義   アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

今回、参院選も近いということで、ここで出てくる代表制の問題を取り上げてみよう。まず結論から言ってしまうと、代表制は機能不全に陥ってしまっていて、今やそれに対する異議申し立ては頻発しているということである。直接政治に介入するわけではないが、兎に角、今の自身の現状を訴えんがための抗議活動などの直接行動を起こす、ということである。前にも書いたのだが、貴族制(少数者による統治)、君主制(1人乃至2人による統治)そして民主制(多数による統治)という政治形態があって、民主制をもう一歩進めた絶対的民主主義(スピノザ)がマルチチュードによる全員の統治となる。しかしながら、この全員による民主政治という普遍は、実のところ民主政治が唱えられたにもかかわらず一度も実現されない理想に留まっているのである。いわんや、破綻してしまった社会主義的民主主義においても、形態としては代表制であったわけであり、その後には全体主義やファシズムといった悪しき遺産を残しているとネグリ等は言う。ネグリ等がいう「全員による統治」は、ややもすると全体主義やファシズムに親和性を持つ概念と思えてしまうのであるが、そうした論考を差し挟みながら極力言葉は選んでいるので、全体主義やファシズムとはなり得ない。しかしながら、ルソーの一般意志そのものが代表制であるとして、全員の意志に結びついているとともに切り離されている、離接的綜合のメカニズムとしている点は、仮に強度が違えば、例えば代表議員が私欲に走るか公益に走るかの傾きで何かが決定される余地は十分あるのではと思うので、的確な説明になっていないと思う。〈共〉性の対概念的なオルタナティブにあって、やっと危うく定義されはするのであるが、このスイッチが入ったり切れたりできる詭弁のような(離接的綜合自体はドゥルーズ&ガタリの)概念は、ルソーのそれこそ意志を裏切るのに容易なメカニズムであることも表出している。そして、煎じ詰めれば、代表とは誰の代表なのかということである。現在の情況から考えると、マルチチュードを代表しているとも言い切れない。有体にいってしまえば、近代的に「党」を代表しているのではないだろうか。そして、何かを決するということは、呆然とした意志を提示するに留まることではなく、マルチチュードの最大公約数の意志で(それが正しいとか悪いとかではなく)決するということではないだろうか。〈共〉性というのを、例の花田清輝のインパーソナルという、経済上の利益を度外視した機能的な人間関係、協働性に直すと日本的には分かりやすいのかもしれない。そして、選挙である。この本でも言ってることであるが、例えば最悪の2候補がいるとして、まだましな1候補に投票するしか選択の余地はなく、その候補が代表として6年、任期を勤めるというのが代表制の欠陥であるわけである。まぁ、その最低の代表が最低、〈共〉を生産しあるいはインパーソナルな活動をしてくれればいいのだが、それがなされない時には罷免という場合もありうるかもしれないけれども、最終的にはその代表に多くの裁量を任せるしかない。

まぁ、兎も角、マルチチュードによる直接的な生政治としての民主主義への野望は、やはりイバラの道ではあるのだけれど、信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!





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