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アンドガタリ [ちょっと哲学的]

いやはや、3月ももう終わりに近づいている。桜もちらほら咲き始めているし、そろそろ本腰入れて社労士の勉強を再開しなければいけないのであるが、思いもよらずに、ネグリハートの共著で知られる帝国小熊英二1968(上)なんて本を読んでたりする。この両方ともかなりのページ数である。2週間リミットで読みきろうとするのであれば、どちらか一冊に絞ったほうがいいのだろうが、例によって、家で読むのと会社で読むのとを分けていたりするものだから、結局どっちつかずで両方とも途中読みで返却なのである。それで中途までの書評をとも思ったのだが、今回は「帝国」を読むのであれば、又マルチチュードを読むのであれば予習的に読んでおくべき本を紹介しておこう。

千のプラトー  資本主義と分裂症  ドゥルーズガタリ

 まずキーワード。ノマド(遊牧的)、戦争機械、条理空間VS平滑空間(必ずしも絶対的な区分があるわけではない)、ブラックホール&ホワイトホール(うず巻き)、器官なき身体、リゾーム、リトゥルネロ、etc.
 本書の書き出しは、地層の話から入るのだが、いわゆる堆積した層の区分が歴史のなんたるかを示しているというようなことで、ただそのボーダーな部分、どっちだろうというような臨界点への掘り下げをしていくわけである。意味は違うかもしれないが、本を横積みにした景観は、一種地層的な感じがする。当然、断層もあるわけで。これは、バシュラール的な知の断絶を呼び起こす。地層というのは、人の歴史以前から積み重なってきているもので、そこから始まって、現代資本主義までの総体まで思考するわけだから、すごい話である。
 黄砂の粒子としての浮遊性は、がちがち条理空間にいる日本人に別の干渉を与えてくれる。
 現代資本主義におけるストックの捕獲装置がどういうものなのか、あらゆる学術から多元的に分析している。そうしたリゾーム性による資本集中の図式、形式とともに、条理空間(現代都市)において、その中で平滑空間(海、空、砂漠など)を作り出す個別的な創造性を分裂症的と看做しながら、その起源的なものは、すでに遊牧民、あるいは戦争機械というものに古代から見てとれるということである。そうしたところから、現代はテクノロジーによってなる条理空間ではあるが、古代都市(条理空間)においても資本(ストック)の捕獲形式には大差はない。ただ、現代社会では、個別的な上に脱領土化→再領土化のサイクルが早い、絶え間なく繰り返されている。
 この書の分類は勿論哲学に入るわけであるが、作者たちは意図的にカテゴライズを拒否するかのような哲学的ではない概念を使用して、現代資本主義を分析しているが、そのひとつがリゾームである。日本語的に言えば、芋かと思う。イモ、ジャガイモが近いのか、切片性という概念も出てくるので。切り口だけからとは限らない。どこからでも芽が出て果実になっていく、いわゆるストック化するというのが、資本主義に限らず、知の場面でも言えるということか。であるからして、彼等からもらったこの種イモから、新しい花を咲かせて、新しいイモを増やす(分節化、分裂)という事であろう。そんなことで、わしもちょっとだけ花咲かせてみようかという気である。ミル・プラトーという音楽レーベルまであったくらいだから、多元多様体としてのイモは拡散しながら増えているのだろう。

さて、これもアンチ・オイディプスの続編として出された本であるが、656ページあるからかなり読了するのに時間がかるかもしれない。しかしながら、このポストモダンを理解したならば、「帝国」あるいは「マルチチュード」の概念はかなり分かりやすいのではと思われる。ネグリ等は理論上の今を措定するのにポストモダンを大幅に援用しているからであるが、彼等の学問的なカテゴライズはポストコロニアリズムをも標榜する現代世界論という観念論をベースとする哲学ということになるだろうか。まだ、中途読みであるからして、結論はいそがないのだけれども、取り敢えず、〈帝国〉とは。「〈帝国〉が、私たちのまさに目の前に姿を現している。この数十年間に、植民地体制が打倒され、資本主義的な世界市場に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに、私たちが目の当たりにしてきたのは、経済的・文化的な交換の抗しがたく不可逆的なグローバル化の動きだった。市場と生産回路のグローバル化に伴い、グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、ひとことで言えば新たな主権の形態が出現しているのだ。〈帝国〉とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである。・・・・・近代的主権は、どこに根を下ろそうとも、かならずや一個のリヴァイアサンを構築したのである。このリヴァイアサン自身、自己のアイデンティティの純粋さを保全し、それとは異なるものすべてを排除するための社会的領域全体を支配し、階層的な領土的境界を強いてきた。」(『<帝国>』p3-4)。<帝国>とは、そうした近代的主権の全く逆、というような主権として、まさに「宇宙的」な拡散、膨張を刻々と持続するのである。その経過というものが、ドゥルーズとガタリが語ってきたものを引き継ぐ形で批評されるわけであるが、パスティーシュのように思ってしまうのは、サイコが常に既にパロディアンであるからだろうか[ふらふら]





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